短編集78(過去作品)
「いや、俺も最初はそうだったんだよ、相手の女性に肩を揉んでもらったんだが、その時の暖かさったらなかったね」
「気持ちに余裕ができるってこのことですね。今まで知らなかった世界が目の前に広がっている新鮮さに、暖かい気持ちが加わって、偏見なんてどっかに吹っ飛んじゃいました」
「それでいいのさ、そのために連れてきてやったんだからな」
先輩が風俗遊びを止められない理由が分かったような気がする。さすがに井沢はそこまでお金をつぎ込む気はないので、たまに遊びに来るくらいで十分楽しめると思った。
大学を卒業し、それなりの企業へ入社できたのは、幸運としか言えない。あまり大学時代熱心に勉強しなかったので、それなりの成績でしかなく、井沢の成績ではとても入社できないようなところだった。だがしいて言えば大学閥があるのは事実らしく、先輩の口利きがあったらしい。
その先輩とは風俗遊びが好きな先輩で、名前を江口貴文といった。
江口先輩とは会社訪問の時に最初に訪ねた人で、先輩も懐かしがってくれた。先輩がこの会社に入社したことは知っていたが、これほど影響力があるとは思ってもみなかった。
偏見がなかったとは言えない。
風俗遊びが好きな先輩が、これほどの会社に入れるとは思ってもいなかったし、成績に関してはあまり詳しく知らなかった。話をしていて得られるものもあったが、それを仕事に生かせるものだとは思いもよらなかったからである。
――不真面目に見える人ほど、実はいろいろ考えていて先見の明を持っていたりするものではないか――
と感心したものだ。
実際、会社訪問に来た時も、
「この会社は真面目だけだと息が詰まりそうな会社なんだ。不真面目なところがあってもいいから、なにか一つ筋の通ったものを持っている人が好かれるみたいだぞ」
と話していた。
「私にそんなものありますかね?」
「何言ってるんだ。君にはシナリオの素質があるじゃないか。構成や企画に向いているかも知れないな」
「私は単純に物を作ることが好きなだけですよ」
「いやいや、それでいいんだ。その気持ちがいずれ大きなものを生み出すんだ」
そう言われて初めて自信が生まれた。
「その顔だよ、その顔がきっといい仕事をしてくれそうな気がする」
いい印象を先輩は持ってくれたのだが、まさか本当に入社できるとは思わなかった。
会社に入って最初は研修期間中で、見るもの聞くものがすべて新鮮だった。
「何でもいいから先輩やまわりの人間のいいところを吸収するんだ」
と先輩から言われた。
最初はそれでもよかったが、次第に自分の性格を思い出してきた井沢は、次第に疑問を持つようになってきた。
――あまり群れを成して仕事をするのは嫌だな――
会社が大きければ大きいほど、自分は会社という大きな組織の中の歯車でしかないことを痛感させられる。どんなに頑張ってもお釈迦様の手の平を飛び越えることができない孫悟空である。次第に虚しくなってくる。
――こんなことをしたいために頑張ってきたのかな?
コツコツ一人でする仕事ならそういう気持ちにはならないだろう。しかし流れ作業的な仕事は元々性に合わない。特に自分のところに回ってくるはずの仕事がさばけていない時の待たされるじれったさ、実に情けないものを感じてしまう。
「残業をしないようにしよう。経費節減」
と唸ってはいるが、その実無駄な残業を強いられてしまうのだから、号令も虚しい。しかもそのおかげで後ろの仕事をする人からは追いまくられてしまう。何か活路を見出さないと辛くなるだけである。
それは仕事に関してではない。そう、気分転換となり得ること、それを思い出そうとしていた。
自分がシナリオを書いていることに自信を持っていた時代を忘れかけていた。あれほど一生懸命だった大学時代。会社に入って追われる仕事をしているために頭では分かっていても実感が湧いてこないのだ。
――結局、私と先輩は違うんだ――
誰との間でも無難に話を会わせることのできる先輩のような人が、きっと成功する人なんだろう。誰にでも気を遣って、まわりをしっかり見ることができる。それが先輩のいいところだ。
絶対的な信頼を持っている。上司からも部下からも慕われる人間とは、きっと先輩のような人をいうに違いない。だからこそ、会社訪問でやってくる後輩の面談相手に選ばれるのだ。
ある日満員電車で見た中吊り広告に書かれていた専門学校の中にはシナリオライターへのコースもあった。仕事で残業の時もあるが、ほとんどは家に持って帰って仕事しているのが現状だ。家に帰るまでに呑んで帰る時間を学校にあてられないこともない。それが気分転換になるのだから……。
電車を降りると駅の待合室などにパンフレットが置かれていた。専門学校といっても、社会人向けのコースも多く、特に資格を取りたい人間にはもってこいだった。情報処理や行政書士、花形資格の名前が連なっていた。
本当は資格でもあればそれに越したことはないのだろうが、とりあえずは好きなことをしてみたい。学生時代を思い出して夢を追いかけてみたいと思うのも、入賞した経歴があるからだ。
また井沢には違う目的もあった。
有美子と別れてから、女性と付き合ったことがなかった。有美子がどれだけ自分にとって必要な女性だったかということを認識したからで、それを考えたのが別れてからだということは実に皮肉なことだった。
しかも別れた理由がハッキリしているわけではない。自然消滅である。何とも中途半端ではないか。それだけにもう一度同じ趣味の女性と知り合いたいという気持ちもあったのだ。
下心と言えないこともない。だが、本心に逆らいたくないと思うようになったのも、有美子と別れてからだ。下手に肩肘張って自分の気持ちを押し殺していると、相手が不信感を持つだけで、いつまでも気持ちが通じ合えない。相手も警戒して本心を見せないからだ。女性と付き合っていく上でそれがどれだけマイナスか、有美子と一緒にいて気がついたことだった。
――いろいろな意味で有美子に教わったことも少なくない――
そう考えると、失ってから次第に自分の中で有美子への思いが強くなっていったことを感じた。
有美子に感じた思いは、同じ目的を持ったものにしか分かち合えないようなものがあったに違いない。だが、シナリオの話を二人だけでいる時はお互いに避けていたような気がする。もちろん、話すこともあったが、そんな時はほとんどが時間も忘れて白熱した論議が展開される。それはたまにだからいいのであって、いつもだと二人だけの時間というものが制限される気がしたのだ。二人だけの時間もあっという間、それならば白熱した時間を持つよりも二人だけの甘い時間をたくさん持ちたいと思うのだった。
それがひょっとして自分だけの考え方で、エゴだったのかも知れない。シナリオの話をしたいと思っていても、気がつけば抱きしめている私に身を任せることが本当に有美子にとっての考えだったのだろうか。今さらそのことを考えてしまう。
付き合いを重ねるごとに会話が少なくなっていた。井沢としては、
――暗黙の了解で、話さなくとも気持ちが通じ合えているんだ――
作品名:短編集78(過去作品) 作家名:森本晃次