短編集78(過去作品)
大平原の石碑
大平原の石碑
――私は夢を見ているのだろうか?
木下康友は目の前に広がる大平原を見てそう感じた。どこかで見たことがあると思いながらも見つめる大平原は、遠くに見える山の頂上がどれほどの高さなのか、想像できないほどに広がっている。
さぞかし絵にすると距離感を掴むのに難しいだろう。絵心が少しはある木下は、無意識に距離を測っていることに気付いていた。平原には果てしなくすすきの穂が植わっていて、季節が秋であることを暗示させている。
風が吹いているのか、まるで巻貝を耳に当てた時に聞こえる、篭ったような音が耳に響いている。目を瞑ると海でもないのに聞こえてくる細波、風に揺れるすすきの穂が大海原を連想させるのか、先に見える山肌には強い日差しが当たっていた。
遠くの方に人がいるのが見える。こちらに向かって手招きをしているように見えるが、ゆっくり近づこうとしても、その姿をハッキリ確認できるところまで行くことができない。
その人は時々木下の夢に登場している人物だ。木下にはその人物が誰か、心当たりがある。夢の中にまで登場する人物はそうもいないだろう。しかも頻繁にである。
――ということは、こんな夢をいつもみているのだろうか?
と感じさせられるが、見ているに違いない。なぜなら目の前の光景からいろいろな連想が浮かんでくるからだ。
水平線といえばどうしても朝日のイメージが強い。伊勢の二見が浦にある夫婦岩の間から昇る朝日、揺れる波に横たわるように写っている太陽を見ると、描きたくなってしまうのも絵心があるからだろう。
遠近感を取ることが絵を描く上で一番大切なことだ。それが生命線といってもいい。中学の頃まではまったくないと思っていた遠近感だが、それもバランス感覚だと思うことで克服できる気がした。何をするにも原因がハッキリと分かっていないことには納得いかない木下にとってバランス感覚に気付いたことは一つの大発見だったのだ。
海に対してあまりイメージがないのは、海が好きではないからだ。釣りが好きな父は、よく夜釣りに出かけていたが、木下もよく付き合わされた。好き嫌いなど関係なく連れていかれたのでは、好きになれという方がどうかしている。釣りの楽しさを必死で子供に教えようとする父だったのだが、相手の気持ちを無視した行動は押し付け以外の何ものでもない。そんな父に反発こそすれ、尊敬などするはずもなかった。
会社ではそれなりに地位があるようだが、子供にそんなことは関係ない。むしろ大人になって、
「人に押し付けるようなマネだけはしたくない」
と反面教師として見ていた。
木下という男、万事が万事反面教師を求めていた。大げさな話になるが、帝国主義の大国が絶えず仮想敵国を求めているようなものだ。自分の中で士気を高めるために誰かと自らを比較してみたくなる。それは木下だけに限らないだろうが、本当にいいことなのだろうか?
しかし、反発心が向上心に繋がることもあるのだ。人に負けたくないなどの反骨精神はその人を確実に成長させる。過ぎたるは及ばざるが如しであるが、ある程度までは許されるはずである。
子供の頃、嫌だった海のイメージをそのまま持って大きくなってしまった木下だったが、なぜか海をイメージすることが増えていた。水平線から浮かんでくる朝日など想像だけではイメージ以上のものはなく、何度か実際に見に行ったこともある。自分の車を持つようになって最初にしたかったことが、水平線を見ようと思ったことだった。
――あれだけ嫌いなはずだったのに――
自分でも不思議なのだ。潮の香りは今でも嫌いである。だが、青い空と水平線の間を、今にも顔を出そうとしている太陽が、オレンジ色に染めていく。頭が見えてくると、そこから表に出てくるまではあっという間であった。まだ姿を現す前の一番空がオレンジ色に染まった瞬間が一番好きな木下である。
木下が感じていたかった遠近感を麻痺させるような不思議な感覚がそこにはあった。絵を描くようになって無意識に遠近感とバランスを考えるようになったのだが、時々感じる遠近感とバランスを麻痺させるようなゾーンの存在に驚愕を覚えながら、それを探し続けている自分に気付く。
太陽の明るさを意識するのだろうか、それとも透き通るような青さを染めるオレンジ色に感じるのだろうか。どちらを強く感じるかということで感覚が麻痺するのかを考えていた。どこかで微妙なバランスが調和して遠近感を皆無にしてしまうはずだ。それを知りたいと思ったが、なかなか見つけることはできない。まるで悟りを開こうとする境地に似ている。
夕方のある時間帯を「魔の時間」というらしい。交通事故が多発する時間帯で、車社会となるずっと以前から「魔物が住んでいる」といって恐れられていた時間帯がある。
その時間になると吹いていた風がピタリと止み、いわゆる「凪」といわれる時間帯に突入するのだ。昼が次第に夜へと姿を変えようとする時間、暗闇を神秘だと思っていた昔の人々が静かに忍び寄る夜をそう表現したのかも知れない。
その時間帯というのは、一瞬目の前がモノクロに見えるらしい。すべてを明るく照らした太陽の効力が切れ掛かり、襲ってくる夜の気配に交わろうとした時、すべてのものがモノクロとなって人の目に写る。それを意識することがないのは、それまでの明るかった太陽の余韻が瞼の奥に残っているからであろう。それだけ太陽の影響力が強いのだ。
すべてのものが太陽の恩恵に預かっている。私たちが知っているものは自らが発光するか、もしくはその恩恵によって見ることができるものばかりである。それを当たり前のように思っているが、広い宇宙ではまったく光という恩恵を受けないものも存在するという学者の話を聞いたことがある。
「光をすべて吸収する世界、すぐそばにあっても誰にも見ることのできない宇宙」
そんなものの存在を誰が想像することができるだろう。ハッキリいって唐突な発想である。その学者の頭の中を切って、中身を見てみたいとまで思ったほどだ。
光のない世界への想像はそのまま恐怖へと繋がる。しかしあまりにも漠然としていて、時間と重ねて見ることができない。不幸中の幸いとでもいうべきだろうか。木下の頭の中には絵を描くことを中心とした概念が広がっている。それはバランスと距離感である。そのどちらもない暗闇の世界への想像などありえないのだ。
距離感というものは、実際に見えているもの以外でも、時間という概念が微妙に働いていることに気付いたのは絵を描き始めてからだ。
じっとしているものを描いているつもりでも、時が経てば微妙にその位置が変わっていたりする。太陽がいい例ではないか。ずっと同じに見えていても気がつけば少しずつ移動している。それが一番よく分かるのが、日の出、日の入りの時だ。
絵の創作意欲を一番掻き立てられるのが、日の出の瞬間だ。やはり水平線との微妙なコントラストが距離感を麻痺させることを再認識させられる。嫌いだった海がこれほど恋しくなるなど、今まででは信じられないことだった。
作品名:短編集78(過去作品) 作家名:森本晃次