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短編集78(過去作品)

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 曲が進むにしたがって、少しずつイメージが出来上がり、ついに曲の終わる寸前に完成するのだ。だが、それも一瞬で、曲が終わると同時に忘れてしまう。我に返ってしまうとは、まさにこのことだ。
 まったく覚えていないといえば嘘になるが、元々が人の顔を覚えるのが苦手な方である。――忘れたくない――
 と思えば思うほど、頭から次第に消えていくのだ。他の人の顔を見ていると頭が混乱してくるのか、残っているはずの残像が消えてしまう。そのために覚えたくとも覚えられないのだ。
 そんな思いが「G線上のアリア」という曲にはある。この曲に対して須崎が果たして聡子が思っているほどの思い入れがあるかどうか分からないが、少なくとも、聡子にとってシルエットに浮かんだ男が須崎に思えて仕方がない。
 須崎が聡子をどのように感じているか感覚的に分かったのは須崎が曲の話をしてからだ。お互いに愛し合っているのは分かっていたが、それがどれほどのものか、それが分かってきたように思える。
 聡子が曲を聴いて以前から須崎の出現を予感していたように須崎も同じように思っていたのではないだろうか。
 須崎にとって聡子は現れるべくして現れた女性ではないだろうか。須崎の聡子を見る目には最初に驚きのようなものが感じられた。まるで見てはいけないものを見てしまったようなそんな目だった。
 しかし、それが次第に懐かしさを帯びてきて、以前から知り合いだったような感じがしているのではないかと思えたほどだ。それは須崎を見ていて聡子が感じたことで、とても会社でまわりの女性を相手にしている須崎からは考えられない目だった。
 聡子にとってこの部屋での須崎とのひと時は、「G線上のアリア」が結びつけたものではないかと思うようになっていた。
「私は、この曲を聴くとあなたをイメージしていたように思うの」
 と話したことがあった。その時須崎は何も言わずに聡子を抱きしめ、それ以上何も言えないようい唇で唇を塞いだのだ。それがすべての答えだと解釈した聡子は、それ以上何も言う気にもなれず、須崎のたくましい腕や身体に身を委ねるしかなかったのだ。
 襲いくる快感の中で、聡子は耳鳴りのように「G線上のアリア」を感じていた。
――香水の香り――
 この部屋で、汗の酸っぱい香りと同時に感じる香水の甘い香りは、「G線上のアリア」を聴きながら、よく大学時代に通った喫茶店を思い出させた。喫茶店というよりもケーキ屋さんが奥でカフェもやっているという雰囲気で、カフェは目立たなかった。それだけにゆっくりできて、BGMの軽いクラシックとともに優雅なひと時を過ごすことができたのだ。それこそ余裕の時間というものだろう。
 翌日から須崎は出張だった。本来ならそのまま家に帰ってもいいはずなのだが、その日に限ってなぜか喫茶「ポエム」へ寄りたくなったのだ。最近毎日のように来ているのだが、それでも飽きることがないのは、マスターの人間性と店の雰囲気によるものに違いない。
 その日も店内にはクラシックが流れていた。落ち着いた雰囲気にさせてくれるが、その日はマスターがよく話しかけてくれる。
「最近毎日来ているけど、家に帰っても面白くないからかい?」
「いえ、そんなことはないですよ。ここに来ると落ち着いた気分になれるから好きなんです」
 と答えるとその答えを待っていたかのように嬉しそうな顔をしている。しかしそれにしてもおかしい。今まで一人でいる聡子をじっと見守るかのように話しかけることのなかったマスターがなぜその日に限って話しかけてきたのだろう。何かを探っているような雰囲気に少し不気味さすら感じていた。
 マスターは聡子のことを「ちゃん付け」で呼ぶ。可愛い妹のような気がするからだと言っていたが、それなりに嬉しい。特に兄弟のいない聡子には、お兄さんのような存在の人を前から探していたような感じがする。
「聡子ちゃんは、仕事楽しいかい?」
「ええ、最初は『仕事なんだから』と思って仕方なくやっていたかも知れないんですが、最近は楽しいですね。やっぱりいろいろ分かってくると面白いものですよ」
「そうだね、今が一番楽しい時期かも知れないね。私も前は会社に勤めていたので仕事に関しての考え方は今でも忘れていないつもりだよ」
「どんな仕事をされていたんですか?」
「私は貿易会社に勤めていたんだよ。食品なども扱っていたし、もちろん、コーヒーに関しても詳しかったよ」
「それで喫茶店を始めたんですね?」
「それもあるけど、やっぱり山に登るようになってからかな? 山で飲んだコーヒーって格別なんだよ。何といっても水が綺麗だからね」
「山ってそんなにいいんですか?」
 確か須崎も山に登るのが好きだったと聞かされたことがあった。信州の山に登ったりしていたらしく、学生時代に撮ったものだといって見せてくれたものだ。そこには数人の男女が写っていて、カラフルな帽子をかぶり、皆にこやかに写っているのだが、いかんせんバックの壮大さを表現するためか、写りが小さいのが難点である。
「これが、あなた?」
「ああ、まだ若かった頃だよ。もう山に登るなんて考えることもないだろうな。でも、本当に綺麗だったんだぞ。君にも見せてあげたかったな」
 出張先から声が聞こえてきそうに思えるほど身近に感じられる須崎である。
 山の話を聞いている時にはいつも目を瞑っている。めったに話が出るわけではないが、愛し合った後に落ち着いてからベッドの横でいつもタバコを吸っている須崎が話しかけてくるのだ。身体に残った倦怠感が何となく山に登った時の心地よい疲れを思わせるかららしいのだが、聡子にそんな思いは分からなかった。
 じっとしているだけで漂ってくる酸味を帯びた何ともいえない匂い、身体の芯から湧き出してくる汗の匂いは、きっと自分では分からないだろう。
――男の匂い――
 嫌いな匂いではない。しかし、懐かしさも感じるその匂いは聡子が始めて抱かれた時から、
「この人の匂いだ」
 と思ってきた。最初は父親を思っているのかも知れないと感じていたが、どうやらそうではない。父親はどちらかというとタバコの匂いをきつく感じていた。子供心に汗というよりもタバコの匂いの方が男性を思わせると思っていたからに違いない。
 聡子にとって男の匂いを感じることは、その人の胸の中で何も考えずにいられる特殊な時間を持てることを意味している。いつも張り詰めた空気の中で見つけたオアシス、それが須崎であり、喫茶「ポエム」だった。
 今、どちらが欠けたとしても聡子にとって安息でいられるはずがないことを自覚していた。
 マスターは今まであまり山の話をしてくれなかったが、その日に限って山の話をしてくれた。何か心境の変化でもあったのだろうか。聡子は少し驚いていたが、
――マスターが思い出に浸りたい時があってもいいんじゃない――
 と感じていた。
「妻とは大学時代に知り合ったんだが、彼女も山登りをしていたんだよ。今の感じからは想像もできないだろう?」
「ええ、そうですね。文学に精通されている方かと思っていました」
「彼女はあれでロマンチックなところがあるんだよ。活発でいて清楚なところがあり、それでいてロマンチック、ピンとこないだろう?」
作品名:短編集78(過去作品) 作家名:森本晃次