短編集78(過去作品)
男性が自分を見る目、いつもそんな風に見られているのではないかと感じると、まともに男性の顔を見ることができなくなった時期もある。好きな人の顔も見れなくなってしまい、きっと顔色も冴えなかったのではないだろうか。躁鬱症への入り口は案外そんなところにあったようにも思える。
欝状態に陥る時は自分でも分かるものだ。いつもというわけではないが、かなりの高い確率で分かっている。
「ああ、またしても……」
そう感じることで逃れられないものだということを自覚する。
考えれば考えるほど須崎の最近の行動や言動は理解不能なことが多い。知らない人から見ればそんなこともなく、ただ気を遣ってくれているだけに写るだろう。しかし、女というものは男性のちょっとした違いには敏感で、少しでも変わったら漠然としてだが、かなりの違いに感じる。
気の遣い方が今までと違ってきた。それは聡子にだけというわけではなく、会社の女性に対しても違うのだ。今までであればもっと冷たくあしらうようなところがあったのに、あしらうどころか何とか助けてやろうとしている姿が見え隠れしている。元々そんな態度を取るのが苦手な人だったはずだからこそぎこちなく、隠そうとしても却って目立ってしまうのだ。
男性社員に対しては相変わらずなのに、どうして女性にばかり気を遣うのだろう?
「最近の課長、変に媚を売っているように見えて気持ち悪いわね」
同僚の冴子の話である。
冴子が須崎の話を始めるなど、聡子からは信じられなかった。給湯室などで女性社員ばかり固まって井戸端会議に勤しんでいる時にいつも端の方にはいるのだが、決して自分から話そうとする素振りを見せたことのない女性で、いないならいないで、誰にも気付かれることはないだろう。「石ころ」のような存在なのだ。
「あなたが言うんだからそうでしょうね。確かに私もそう思うわ」
いつも輪の中心にいないと気がすまないような女性社員が皆に向かって言った。めったに人を褒めたり持ち上げたりすることのない彼女がいうのだから冴子はそれなりに皆から一目置かれているようだ。どういう意味での一目かは一言で言い表せないが、皆の間で冴子の見る目は暗黙の了解が存在するようだ。
「あなたもそう思うの? 私もなのよ」
一人が言い始めると皆堰を切ったように同感だったことを語り始めるのも、井戸端会議の特徴といえよう。誰かが言い出すのを待っていたのかも知れない。
しかし、聡子だけは笑って済ませられることではなかった。皆は知らないはずだが、自分は当事者、他人事ではない。心の中で、
「皆と私は違うのよ」
と叫んでいたことだろう。
しかしそんなことも仕事が終わればすぐに忘れてしまう。
まず喫茶「ポエム」での一時間が前奏曲を奏でてくれ、部屋へと到着する頃には気持ちはシンフォニーの世界へと導かれている。学生時代にクラシックが好きで、よくクラシックコンサートに行っていたが、その時に一番感じていたかったのが何だったか、少しずつぃ思い出していた。
「気持ちがリッチになれるのよね」
気持ちがリッチになるということは、余裕を持てるということである。心の余裕がもたらす生活のリズムは、時間をも支配できるものであることを知ったのが須崎との出会いだということも皮肉なことだ。
須崎のどこが好きなのかと言われて儀とことで答えるとすれば、
「気持ちに余裕のあるところ」
と答えるだろう。相手の気持ちの余裕は自分の気持ちをもリッチにしてくれ、それまであった言い知れぬ不安を忘れることができるひと時を与えてくれる。
あくまでも言い知れぬ不安が忘れられるというわけではない。しかしひと時でも身も心も委ねられる人がいたならば、言い知れぬ不安が少しでも軽くなるというものである。本当であれば須崎と一緒にいれば言い知れぬ不安が増してきそうだと感じるのだろうが、それを忘れられるほどの須崎の魔法に掛かっているのではないかと思うのだった。
そんな須崎が女性に媚を売る?
それは聡子にとっては大問題である。自分のものだとまで思っているはずはないと信じていた自分自身が信じられなくなってきたのだ。
――そこまで私は彼のことを?
と考えれば考えるほど袋小路に迷い込んでしまいそうである。
須崎の部屋で聞いた「G線上のアリア」のメロディ、
「この曲が私は好きなんだが、この曲には魔力のようなものを感じるんだ」
「どういうこと?」
須崎が何を言いたいのか分からない。
「この曲はいつ聴いても同じ時間で終わってしまいそうに思うんだよ」
「同じ曲なんだから当たり前のことじゃない?」
「いや、他の曲を聴いている時は微妙に曲の長さが違って感じるんだ。途中のリズムはまったく同じなのにだよ。きっと終わりに近づいた時に感じるのがその時の心境を表していると思うんだ。そういう意味でまったく同じ時間で終わってしまうように感じるこの曲は私からすれば実に不思議な曲に感じられるんだ」
須崎に言われて考えてみると、聡子にしてもそうだった。それぞれの曲に思い出があり、その時々の心境に戻ろうとするのだが、どうしても現在の心境を考えるからか、過去に戻れないんだという思いが交差し、微妙に違う。無意識にそれが当たり前なんだと思っていたように思う。それは曲というものに神経を集中させて聴いている人間だけに感じるものではないかと感じる。
それにしても同じ「G線上のアリア」を聴いて同じことを考えるというのは、二人の感性がそれだけ引き合うということなのか、それともこの部屋に何か魔力のようなものがあるのか、実に不思議な感覚だった。
今までにこの部屋以外でも「G線上のアリア」はよく聴く曲であった。喫茶「ポエム」でもBGMはクラシックなので、時々掛かっていたはずなのに、一定した時間の感覚など考えたこともなかった。
元々聡子は暗示に掛かりやすい性格である。それが災いしたのではないだろうか?
疑り深いところがあるくせに、一旦信じることができた人や、尊敬する人の言葉を鵜呑みにしてしまうところがある。特に須崎はそのどちらでもあるのだ。彼のせりふの一つ一つを噛み締めるようにして聞いているので、暗示に掛かったとしてもそれは聡子にとって不思議でもなんでもない。
だが、「G線上のアリア」に関しては、最初から聡子も感じていたことだったようにも思える。聡子にとって、この曲は今まででも特に思い入れのある曲の一つだった。
一人で聴いていることの多い曲だった。喫茶店で一人コーヒーを口に持っていきながら聴いているうちに何か考え事に嵌ってしまうことが多い。それもいつも同じような情景を頭に思い浮かべ、誰かの顔がシルエットのようになっているようだった。
「あなたは誰なの?」
とまるで夢の中のようなのに聞いてみる。相手は男でシルエットを見る限りたくましい身体をしている。見覚えがないわけではないが、すぐに思い出すことなどできないだろう。
曲を聴き終わるまで思い出せるはずなどないように感じていた。しかし、聴いているうちに自分の中で必死にシルエットの向こうに見える顔を思い浮かべているのが分かり、次第に焦ってくるようだ。
作品名:短編集78(過去作品) 作家名:森本晃次