短編集78(過去作品)
優しさをなるべく隠すようにしているのも分かって、それを分かる自分が可愛らしく感じる聡子だった。まるでお釈迦様が孫悟空を手の平の上で遊ばせているような気分になっているに違いない。だが、結局はどちらが遊ばせているのか分からない。
留守電のことはなるべく気付かないようにしている聡子だった。知らないと思っているのか、ちょっと席をはずしている間に須崎はいつの間にか留守電を解除している。もっともわざと聡子が席を外すのだが……。
耳を済ませていても、留守電に入っている声は聞こえてこない。無言なのではないだろうか。聞こえてくるのは、
「三時間前のメッセージです」
という機械が出している声である。いつも同じ時間に掛けてくる無言電話、同じ人物によるものに違いない。
それにしても誰なのだろう? 男なのか女なのか、若い人なのか年を取った人なのか、それを知っている人なのかまったく知らない人なのか、見当もつかない。
何度須崎に聞いてみようと思ったことか分からない。しかし彼が気にしていない素振りをしている以上、聡子の方からわざわざ蒸し返すようなことをしたくない。須崎のプライドを傷つけたくないという気持ちであり、聡子自身のプライドでもあるのだ。
須崎も聡子もあまり余計なことを口にする方ではない。会話も短い時間で、それだけにお互いに相手が気付いてくれると思っているところがあるに違いない。その中に勘違いがないとは限らないが、それでも何も信じられないよりもましである。
聡子には誰も信じられなくなった時期があった。大学時代に一番男性と付き合いたいと思っていた時期があったが、その時に、「この人なら」と思える人が現れた。顔はそれほどかっこいいわけでもなく、聡子のタイプというわけでもない。元々相手の顔を見て性格を判断し、それで好きになるか考える方だが、いかに優しそうなその人に一目ぼれだった。
彼は確かに優しい人だった。それは聡子にだけでなく誰にでも優しいのであって、見ているだけで嫉妬の炎を感じる。しかし逆にそんな男性だからこそ、
――誰にも負けたくない。彼を私だけに向けさせたい――
という思いがメラメラとあった。そんな思いが通じてか彼の方からデートに誘ってくれたのである。
「まさか」
という思いがあったが、自分に持っていた自信が絶対的なものになった瞬間だとも言え、それがことのほか嬉しかった。
だがそれほど甘くはなかった。彼がデートに誘っていたのは聡子だけではなかった。今まであれだけ冷静な目で状況を見れていたのに、どうしたことだろう? それだけ恋は盲目ということなのだろうか?
その時、初めて自分が躁鬱症であるということを知った聡子だった。それまではなんとなく何をやっても冴えない時があり、その理由を考えるのも億劫な時があったが、まさか自分に躁鬱症の気があるなど想像もしなかったのである。
躁鬱症であり、感情の起伏が激しい性格であることに最近気付いたことで、自分がとても嫌な性格の女に思えてきた。
どちらかというと自信のかたまりに近い性格だと思っていたのだが、それだけでは済まされないことを自覚し始めたことで、またしても鬱病のようになってしまう時の自分が一番嫌いだった。
須崎にもそんな性格が分かっているのだろうか?
感情の起伏が激しい時の聡子は、いくら須崎といえども、何を言っても無駄だった。下手に余計なことを言って神経を逆撫するような結果になってしまうことはよく分かっている。そのために
――君子危うきに近寄らず――
の例えどおり、何も言おうとしない。
ある時期までくれば感情の起伏が収まってくることを知っているからだろう。須崎もソッとしていることが得策だと思っているようだ。しかし一週間はたっぷりと続く期間、よく耐えられるものだと自分のことでありながら、聡子は感心してしまっていた。
須崎がシャワーを浴びている時、上がってから飲むビールのために聡子はいつも簡単なおつまみを作っている。キッチンで冷蔵庫を開けて入っているもので作るのだが、冷蔵庫の中身は聡子自身がいつも把握していた。
その日もいつものように冷蔵庫を開けると、中からサラダとタマゴを取り出して、おつまみを作ろうと考えたのだが、
「あら?」
奥を見るとチーズがあるではないか。それも食べかけのようである。
「いつ食べたのかしら?」
チーズを買ってきたのは聡子ではない。聡子は乳製品が苦手なので特にチーズ・バター系は見ただけでも嫌なのに、
「どうして? 本当にあの人が食べたのかしら?」
須崎はいつも聡子には気を遣ってくれていて、何も言わないが聡子の嫌いなことは決してしようとはしない。それは聡子が躁鬱症だという性格を把握しているからというのもあるだろうが、それが彼の優しさだと思っていた。無口なだけに余計優しさを感じることができる。
最近聡子はいろいろなことを気にするようになっていた。
「嫌だわ。また余計なことを気にしちゃって」
自らを戒めるように呟いた。須崎は元々乳性品が好きな人である。自分が食べたくてチーズを買ってきたのなら、それをとやかく言う権利は聡子にはない。ただ、それだけでは済ませられない何かを感じていたが、胸騒ぎのようなものだろうか?
冷蔵庫の一番下の段に、いつも二人が飲むだけのビールが冷やしてある。そこから取り出せば隣に置いてあるケースからビールを取り出して冷蔵庫から、たった今抜いた箇所にしまいこんでおくのだ。それも聡子の仕事、須崎がシャワーを浴びている時間の恒例になっていることなのだ。
暑くなってくると食欲も落ちるので、おつまみもそれなりに簡単なものになる。時間もそれほど掛からなくなるのだが、それに反比例するかのように、シャワーの時間はどうしても長くなる。身体にへばりついた汗を流すのに、どうしても時間が掛かる。それは先にシャワーを浴びた聡子が一番分かっていて、それだけに待っている時間が長くなる。
リビングではすべての用意が整い、後は須崎がサッパリしてシャワーから上がってくるのを今か今かと待っているだけだ。クーラーの効いた部屋で、ついさっきシャワーを浴びてサッパリしたばかりの聡子はゆっくりしていた。
「そういえば、このリビングで一人ゆっくりすることなんて、あまりなかったことだわ」
独り言を呟いた。
どちらかというと聡子は独り言の多い方である。無意識なので、本人はあまり意識していない。それだけに厄介で、仕事中でも思わず呟いているらしく、時々先輩社員に指摘されて顔を赤くしてしまうことも少なくない。
独り言が多いと自分で感じるようになったのは高校時代からだった。それまでも多かったのかも知れないが、最初に気付いたのが人から指摘されたからであり、指摘されることがなければ、ずっと気付かないまま来たのではないかと思える。
――治さないといけないわ――
と思っていても無意識に出るものをやめるということは実に難しいことである。
「あの女、気持ち悪いな。いつも独り言を言ってるからな」
作品名:短編集78(過去作品) 作家名:森本晃次