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自殺と症候群

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 このことをずっと考えるようになった。
 このことを考えている限り、自分から自殺することはないわけなので、それはそれで皮肉なことだった。
 最初は自殺というと、
「どんなに痛いものなのか、苦しいものなのか」
 ということばかりを気にしていた。
 それは子供の頃の感覚であり、考えてみれば、子供の頃から死というものをいつも考えているような少年だったということだ。
 だからと言って、いつも、
「死にたい」
 と思っていたわけではない。
 むしろ、死を意識することで死にたいと思わないだろうという思いが無意識に働いたのではないかと後になって考えたほどである。
 死というものに対してこれほど自分で何を考えているのか冷静になって纏めたことはなかった。纏めたと言っても文字にして残したわけではないので、整理したというわけではない。どちらかというと、箇条書きにしたと言った方が正解ではないかと思うのだが、今まで避けてきたことをここまで考えるようになったのは、やはり死というものに向き合おうとしているからなのかも知れない。
 本当は死にたくない。自殺をする人のほとんどが、
「生きられるものなら生き続けたい」
 と思っているに違いない。
 そのまま死ねる人、生き残ってしまう人、どちらが幸せなのか判断がつかないだろう。そもそも死を考えた人のどこに幸せなどという言葉が存在するのかと言われればそれまでだと思っているが、ここでいう幸せというのは、
「どちらが不幸ではないか?」
 という減算法で考えられたものである。
 ただ、本当に自殺するかしないかは別にして、
「どの方法が苦しまずに死ぬことができるか?」
 ということを真剣に研究してみたかった。
 もちろん、このことは誰にも話すつもりはないし、自分だけの胸に閉まって、秘密裏に事を運ばなければいけないと思っている。
 自殺というものにはいくつか種類がある。
――服毒自殺、列車に飛び込む、ビルなどの高所から飛び降りる、リストカットする。首吊り自殺を試みる。睡眠薬を服用する、などなど……
 である。
 最初の服毒自殺と睡眠薬の服用とは似ているように思えるが、苦しみという意味でまったく異なものであることから、別に挙げてみた。
 いろいろ調べてみると、楽に死ねそうに思うことでも実は難しく、苦しいように思うがあっという間に終わってしまうということもあるのが分かってくる。要するに自殺の手段として、どれを取っても、一長一短あるということなのだ。
 例えば服毒自殺であれば、まず考えられるのは、苦しみにのたうち回るが、確実に致死量を飲めば、死ぬことができる。だが、もう一つ問題なのは、その入手が困難なことである。
 ただ、毒と言っても、何も精製された毒だけが毒ではない。天然に存在しているものも毒として存在している。下手をすると、知らずに口にしてしまうこともあるのではないかと思うようなものである。例を挙げれば、花のスズランをイケている水、これは毒である。イケてあった水を飲むだけでも人間は死に至ると言われている。ミステリーのトリックとしても用いられる、入手が楽な毒の一つである。
 次は列車に轢かれるという轢死の場合、この場合は微妙である。電車に飛び込んでもタイミングによっては生き残ることになるだろうし、生き残った場合にどのような後遺症が残るかも分からない。何よりも、自殺とはいえ、公共の列車を止めることになるのだから、それなりの賠償金が請求される。いくら半身不随となったとしても、その代償は家族に求められる。それは死んだ場合も同じことで、遺族は悲しみに打ちひしがられながら、賠償金にも苦しめられることになる。それなのに列車に飛び込むという自殺は未来においても減ることはない。賠償金の事実を知らないのか、それとも安直に考えてしまうのか、これほど理不尽な自殺というのもないというものだ。
 次にビルの上などから飛び降りる場合の話であるが、これはある程度確実に死ねると思える。だが、飛び降りてから実際に地表に達するまでにどれほどの時間が掛かるかを考えると、恐怖を味わうという意味では即死であっても、恐怖を免れることはできないであろう。
 そのせいもあってか、無意識のうちに飛び降りている間に、
「楽なところに落ちよう」
 という意識が働かないとは言えないだろう。
 そう思うと、死にきれずに生き残ってしまうこともあり、そうなると、その後を思うと何のために自殺を決めたのか分からなくなる。
「人間というのは、死ぬ勇気など、そう何度も持てるものではない」
 と言われるが、それも当たり前の話である。
 ただ、ビルとは違い、断崖絶壁などから飛び降りる場合、相当な加速度がつくことで、目的地に到達する前に死んでしまうということがあるようだ。ひょっとすると、この方が一番楽な死に方なのではないかと思うが、あくまでも科学的な話だけなので、どこまでの信憑性があるのか、特に死を前にした人に信じられることなのか、疑問であった。
 列車に轢かれる場合も、ビルなどから飛び降りる場合のどちらも、死体となって残った時、どのような悲惨なものかを創造すると恐ろしいものもある。自殺を思いとどまる人の中には、それを創造する人も少なくないだろう。
 自殺を考える中で、次に考えるのはリストカットであろう。血飛沫が飛び散らないように水に腕をつけて、手首の動脈にカミソリを当てる。一番楽な死に方に思える。だが、これは他の死に方と違い、手首を切るという行動は自分本人で行わなければいけない。飛び降りや飛込も足を踏み出す行為は自分だが、最終的な死をもたらすのは自分ではない。そのため、やめることができるとすれば、手首を切ることくらいであろう。飛び降りや飛込はある意味、足が離れてしまうと終わりである。しかし、リストカットは手加減を加えることができる。だから、自殺志願者は何度も試みて、結局達成することができず、後がいくつもできているのだ。
「人間、死ぬ勇気をそんなに何度も持てるものではない」
 と言われるが、リストカットは何度も繰り返す人がいるということは、手首を切る際に、本当に死を覚悟している人ばかりではないということになるのかも知れない。
 もちろん、精神的な疾患からリストカットを繰り返す人もいるだろうが、自殺を考える人のほとんどは精神的には健常者ではないだろうか。そう思うと、リストカットが一番自殺には手軽で、自覚のない中で行われていると思うのは乱暴な発想であろうか。
 次には首吊り自殺である。
 会社の倒産などで多く見られるのがこのパターンであるが、これもかなりの覚悟が元でなければいけないと思う。首吊りを行って、生き残ったという人をあまり聞いたことがないのは気のせいだろうか?(作者が知らないだけなのかも知れないが)
 しかも首吊り自殺の場合、よく言われることとして、
「死んだ後の姿は、放尿、排便、嘔吐など、死体としては見られたものではない格好になるわよ」
 などと言われることが多い。
 自殺を思いとどまらせる言葉であるが、どうやらそれは本当のことのようで、残った家族には見せられないものだと言えるかも知れない。
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次