自殺と症候群
「じゃあ、他に何かいい案でもあるの?」
と聞かれれば絶句してしまうからだった。
それを言われてしまうと、もうどうしようもない。どう答えていいか分からずに戸惑っていると、戸惑いを見せた時点で、その口論は負けることは決定したも同然だった。
子供の頃というと、高度成長時代の真っ只中。
「もはや戦後ではない」
と言われているが、それも占領軍が目指した日本の民主化が成功したという現れであろう。
日本の成功例は、敗戦国であるにも関わらず、他の国からも称賛を受けていたことだろう。特に社会主義国との冷戦の時代だけに、民主化による経済復興、そして国としての復興が成ったことは、日本だけではなく、世界的にもいいことだったに違いない。
そんな高度成長時代がオリンピックをピークに最高潮を迎えた。ほとんどの日本人は、
「これからもどんどん発展する」
と信じて疑わなかっただろう。
だが、景気の後に襲ってくる不況というのも、経済学では定石であった。だから、好景気しか知らない人たちは、どうしていいのか困ってしまうだろう。中小企業の倒産などそのいい例で、高度成長時代には見えていなかった。いや、見えていたのかも知れないが目を瞑ってきたであろう公害問題が本格的に論じられるようになると、大企業もただでは済まない事態に陥ってしまう。
そのせいもあってか、自殺者が増えてきた。今までいなかったわけではないが、これも時代背景が暗い時代に入ったことを証明するかのように自殺が増えたことが話題になると、これも公害問題と同じで大きな社会問題となっていった。
モラルの問題でもあるが、生まれた子供をコインロッカーに遺棄するという「コインロッカーベイビー」が社会問題になったのもこの時代だった。
自殺ではないが、自分の子供をひそかに生み落とし、育てられる自信がないということでの遺棄なのだろうが、
「だったら、どうして堕胎しなかったんだ」
とほとんどの人がいうだろう。
だが、ギリギリまで迷っていて、堕胎できない時まで来てしまえば、後は生れた後に遺棄するしかないという一番安直な考えに突き進んでしまったのだろう。
一人がやると、似たような境遇の人はそれをマネしてしまう。本当はこれが一番怖いことなのかも知れない。そういう意味では、一番最初にやった人が一番罪が深いと言えるのかも知れないが、果たしてそうなのか、誰にそれを裁く権利があるというのか、社会問題というのは、このあたりの倫理にも影響してくることであろう。
ただ、自殺というのも、殺人と同じなのかも知れない。
まったく身寄りのない人であれば別だが、その人が死ぬことで悲しむ人がいるのであれば、それは、
「自分で自分を殺す」
という殺人に他ならない。
「人を殺すのと、自分を殺すのでは、勇気という意味ではかなり違ってくるものなんでしょうね」
という人がいた。
確かに人を殺そうとする人は、一発で息の根を止めていることが多い。
「一気に殺してやらないと苦しむ姿を見たくない」
という思いや、
「殺そうとしている相手が生き残ってしまうと、今度は自分が危うくなる」
という思いから、一気に殺してしまうという意識が無意識に働くのかも知れない。
だが、自分を殺す場合は、苦しむのは分かっているので、どうしても躊躇ってしまう。手首を切るという
「リストカット」
と呼ばれることを何度も繰り返している人も多い。
「死んでも死にきれない」
と、この世に未練を残した人がいう言葉であるが、自殺しようと思った人も、自殺に赴くまでは、
「生きていても仕方がない」
という考えから自殺を実行するのだが、いざ決行しようとすると、躊躇いが生まれるようで、その時に、
「死んでも死にきれない」
という未練を思い出すのだろう。
家族の顔が頭に浮かぶのか、それともやり残したことを思い出すのか、どちらにしても肉体の苦痛以外でも死ぬことへの躊躇いが生まれるのだ。
肉体的な苦しみと精神的な未練と、どちらが自殺を思いとどまらせるのに決定的なのだろうか。両方が頭をもたげることで初めて、
「死にたくない」
と思うのかも知れない。
毒を飲んでしまったり、何かに飛び込んでしまったりすれば、時すでに遅しなのかも知れないが、飛び降りる際には、無意識に身体を捻ったりして、少しでも被害を少なくしようと思うのかも知れない。
そのおかげで命は助かることもあるかも知れないが、そのまま植物状態に陥ったり、後遺症が残ってしまったりと、生き残ったとしても、後に待っているものは、悲惨しかないのかも知れない。
それを思うと、生き残ったことが果たして正しいことなのかと言わざる負えないだろう。
生と死の狭間には何かが存在しているように感じている人がいるという。死んでから死後の世界に行くまでにとどまる場所があるという考え方だ。映画や小説などでそのような話を聞いたことがあるが、武則にはその話に少なからずの信憑性を感じていた。
死にたいと今までどうして思わなかったのか、死にたいと初めて感じた時に思った感覚だった。
子供の頃にも理不尽なことがあり、家出をしてみたりしたことはあったが、死というものまで考えたことがなかった。だが、実際に死というものに向き合ってみると、
「なぜか初めて感じた感覚ではないような気がする」
と思ったのだ。
それはきっと、いつの時にか死に対して感じたことがあったからなのだろうが、その時の記憶がまったくないのだ。死を意識したことで気が付いたのだが、もし死を意識することがなければ、一生気付かずにいたかも知れない。
――いや、いずれ迎える「本当の死」の際で感じることになるだろうが――
と感じたが、「本当の死」というものを自分で感じたくせに、その言葉に一種のおかしさを感じたのだ。
本当の死というのは、自殺で迎える以外のすべての死のことをいうのであろうか? もしそうだとすれば、自殺以外はすべて肯定されるということになる。
自殺以外でも、理不尽な死に方もあるかも知れない。今は思いつかないがそれがどのような時に生まれるのか考えていた。
「誰かに迷惑を掛けて、それが恨みとなって相手に殺意が生まれ、その人に殺されることがあるとするならば、それは肯定される死になるのだろうか?」
と考えてしまった。
自分が原因で自分が殺される。自分が殺されるだけの理由を作ったのだろうが、それでも自分を殺した人は、無理もない状況だったとしても、その人が殺人という罪で罰せられることになる。これは自分に対して理不尽というわけではなく、殺した人に対して理不尽ではないだろうか。
だが、考えられている死後の世界では、殺された人はさておき、殺した人はどんな事情があったとしても、死後も地獄に落とされるという考えである。だったら、殺された人も地獄ではないかと思うのだが、果たしてどうなのだろう? 殺人という事実だけがドラマなどでは強調され、殺された人の事情には言及していないというのは、理不尽である。
それをどのように表現すればいいのか難しいところではあるが、やはり結論が出るものではないのだろう。
「自殺する人間が最後に何を考えるか?」