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自殺と症候群

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 テレビのワイドショーなどでもコメンテーターが出演して、いろいろなことを言っているが、そのほとんどは誰もが考えていることであったり、他のコメンテーターと同じ発想でしかなかったりすると、
「またか」
 というウンザリした気持ちにさせられるのは、
「他人と同じでは嫌だ」
 と思っている武則だけではないに違いない。
 ただ、テレビでは話されることはないが、週刊誌に奇妙な話が書かれていた。それを書いたのは評論家でもコメンテーターでもなく、ホラー作家だった。
 その作家はホラー作家という触れ込みで、SFも書いたりミステリーも書いたりしているが、
「基本はホラーにある」
 ということで、自らを、
「自称、ホラー作家」
 と名乗っているのである。
 彼は週刊誌で興味深い内容を書いていた。ホラー作家が書くから面白いという目で見ることができるが、これをコメンテーターや評論家が書いたのであれば、
「何これ、笑えるんだけど」
 と一蹴されて終わりではないだろうか。
 彼の提唱している内容は、
「自殺菌」
 なるもので、自殺が流行しているのは、この菌が蔓延しているからだという。
 ただ、この菌が蔓延するには条件があり、今の世の中のように理不尽さがハッキリした形で世間に認められるとこの菌が流行するのだという。一見、笑い話のようだが、武則には笑えないものがあった。自殺が流行するのを、このようなハッキリとした媒体を創造した人は誰もいない。ある意味勇気のある発表だと思った。そして、自殺菌なるものを信じてみようと思ったのだ。
 自殺菌なんて発想、誰にでも思いつきそうなのだが、思いついたとしてもバカにされるのが嫌で、誰も口にはしないだろう。それを口にするというだけでも勇気に値すると武則は思ったのだ。
 人の「死」について今までほとんど考えたことが武則にはなかった。そもそもほとんどの人は死について考えることなどないのだと言われると、その言葉を鵜呑みにしてしまいそうだが、
「考えること自体が悪なんだ」
 と思えば、考えなかったことを正当化できる気がした。
 武則は別に宗教家でもなければ、宗教に興味を持ったこともなかった。だが、死というものを考えることは、人間を作った神様への冒涜だという考えは彼の中にあった。
「人間は生れてくるという自由はないが、生まれてしまえば、死ぬことを選択することはできる」
 という考えも成り立つ。
 ただ、世間一般に言われていることは、自らの命を自らで断つということは、それ自体が犯罪だという考え方だ。死んでしまったのだから、誰が裁くのかという問題もあるだろうが、それを解決するのが、いわゆる「死後の世界」という考え方なのだろう。
 だから宗教によっては、自殺を許していない。代表的なものがキリスト教で、自殺を認められていないので、昔の人は自殺のかわりに、配下の者に自分を殺させるという手段を取ったりもした。
 細川ガラシャの話などもそのいい例で、クリスチャンである彼女は、石田三成から人質になるため城を包囲された時、夫のために人質になるより、自らの死を選択した。クリスチャンであるがゆえに自殺することが許されないということでの苦肉の策であったが、自らで命を断ったということに変わりはないのだから、本当に彼女が許されたのかどうか、あの世に行かなければ分からないだろう。
 自分の死を自らで決められないのであれば、一体誰が決めるというのか、武則はその答えを見つけることができず、さらに死というものに対しての数々の矛盾に答えが見つからない以上、
「死について考えることは無駄なことだ」
 と考えるようになっていた。
 死など考えることのない幸せな生活、幸せとは言えなくとも、普通に生活している間はまったく考える必要のないことであり、必然にやってくる寿命であったり、偶然にやってくる事故などによる死というものは受け入れられる気がしていたが、自分の不摂生に対しての死であれば、きっとどこかで後悔するに違いないと思った。
 だが、死というもの自体を考えることを無駄なことだと最初に感じてしまったことで、病気による死について考えることも、自然と拒否してしまっている自分がいた。
 いわゆる、
「逃げ」
 なのであろうが、死について考えることが答えの見つからないものを永遠に考えるという堂々巡りを繰り返してしまうことを分かっているだけに、負のスパイラルになることはやはり無駄なことだと最終的に考えるのだと思えた。
「年を取ってから嫌でも考えるんだろうな」
 と思ったが、若いうちはどうしてもピンとこない。
 年を取ってから考えるのであれば、時すでに遅しで、後悔のあらしになるのだろうが、ピンとこないのだから仕方がない。これほど皮肉なことがあるだろうか。やはり死というものはいくら本人であってもコントロールできるものではなく、神様によって生命が与えられたと思うしかないと武則は思っていた。
 彼は、そういう意味で自殺に対しては否定的な考えを持っていた。自殺をする理由もないし、まずそんな勇気も沸いてこない。実際に自分のまわりで何かが起きて、二進も三進もいかなくなり、身動きが取れなくなると、死を考えるのかも知れないが、それに対してもピンと来るものでもないし、やはりその時にならないと分からないことを今考えるというのもナンセンスでしかないと思うのだった。
 まだ二十代前半という年齢は、大学に進学していれば、まだ学生という年齢であった。実際に大学に進学した連中を見て、眩しく見えていた時もあったが、それも最初の一年目だけで、自分が勤め始めた工場にて、一人前とまでは評価されていないが、少しずつでも仕事の部分部分をやらせてもらえるようになるだけで、
「お前らには味わえない感動だ」
 と、心の中で、楽しそうにしている大学生に呟いていた。
 彼らを見ていると、絶対に集団でしか行動していないように見えた。もちろん、大学生活を勉学に注ぎ込んで、将来をしっかりと見据えている人もいるだろう。しかし見えてくるのは、団体でしか行動できず、まわりの迷惑も顧みることもなく大声で叫んでいる連中ばかりだった。
――あいつらは、自分たちがバカの代表のように思われているのを気付いていないのかな?
 と感じたが、実際にまわりが彼らをバカの代表のように見ているかどうか分かるわけもなかったが、少なくとも多数決を取れば、バカの代表に見える人が一番多い気がしていた。
 民主主義というのは実に分かりやすいものであるが、融通の利かないものでもある。理論だけを聞くと、公平に聞こえるが、実際に運営してみると矛盾や不公平の山なのかも知れない。
 武則は高校までの勉強しかしていないので、政治などの詳しいことは知らないが、民主主義が多数決の主義であるということだけは知っていた。
 子供の頃(高校時代も含めてであるが)、何事も多数決で決めていた。
「これが民主主義というものだよ」
 と、誰かがいうと、それに誰も逆らう人はいなかった。
 多数決で少数派の人は理不尽を感じていたことだろう。実際に武則も民主主義の理不尽さを感じたことがあった。だが、反論はできなかった。誰に反論していいのか分からないし、反論したとして、
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次