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自殺と症候群

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 と、一生のうちに最低一度は誰でも思うものだと武則は思った。
 ただ、その分、
「石ころでは嫌だ」
 と思うこともあるだろう。
 それは自分が石ころだという意識を持っているから感じることで、逆も真なりではないだろうか。
「石ころでは嫌だ」
 と思うからこそ、石ころになりたいと感じる人もいる。
 ただその場合は、外的要因に基づくことがほとんどではないだろうか。人から諫められたから卑屈になって石ころになりたいと思う。そんな感情は自分だけでは抱くことができないものなのかも知れない。
 ただ一つ言えることは、
「石ころになりたい」
 という思いと、
「石ころでは嫌だ」
 という思いを両方抱いた人は、その両方を絡めながら繰り返すという特徴を持っているのかも知れない。
 つまりは、石ころになりたいと感じるのは、その人にとっては一度だけではないということだ。
 ただこの時代は自殺が横行している。
「なぜ人は死にたくなるのか?」
 というのを、高校時代のクラスメイトが話していたのを思い出した。
 その時は、
――こいつ、何を言っているんだ?
 と真に受けていなかった。
 彼は普段から理屈っぽいところがあり、武則のウンチクとは少し違い、ただの
「鬱陶しいやつ」
 というイメージしかなかった。
 しかし、考えてみれば、似た者同士だったと言えるのかも知れない。
 相手が自分と似ていたからこそ、そんな相手を毛嫌いしていたからこそ、
――俺はあいつとは違う――
 という思いが強く、その感情が反面教師として表に出てきて、武則は敵対視していた。
 相手も同じだっただろう。自分が同じように相手を避け、敵対視しているのだから、当然相手も同じことを考えていて当然だ。
――そっちがその気なら、こっちだって――
 という思いが頭をもたげる。
 そもそもこの思いがあるからこそ、相手に対して敵対視できるのであって、相手がこちらのことを意識していなければ、まるで糠に釘の状態ではないか。反応のない相手に何をしても無駄だという感覚は、
「ゼロに何を掛けてもゼロでしかない」
 という発想と同じである。
 武則は、
「学生時代にもう少し勉強しておけばよかった」
 と思っていた。
 ウンチクが好きで、勉強も実際には嫌いではなかった。成績もそこまで悪かったわけではないので、行こうと思えば、大学進学もできたのではないかと今では思う。
 しかし、中学の頃からどうしても受験勉強が嫌だった。詰め込み教育というのか、ちょうどこの頃から激化してくるいわゆる「受験戦争」に、武則は目を背けていた。
 基本的に人と争うということがあまり好きではなかった。よくよく考えれば受験というのは自分との闘いであり、成績における順位というのは、本当は関係ない。受験の際に受け入れる側の学校に「定員」というのがあるから、どうしても他人を意識するのだろうが、そのために偏差値やランクがあるのであって、それは自分だけで決めるものではなく、学校の先生などと相談してもいいのだ。一人でできるのは勉強だけで、勉強をするだけであれば、別にまわりを意識する必要はない。
 だが、世の中の風潮がその考えを許さなかった。武則の親にはそこまではなかったが、世の親たちは自分の息子や娘に期待するあまり、近所でのうわさ話に自分の子供を肴にするほどだった。
 そんな風潮に武則は嫌気がさしていた。その当時はまだ高度成長の時代で、それからやってくる不況を誰が予想できたであろう。若いのだから、夢の一つでも持っていれば少しは違ったのだろうが、武則には別に目指したい夢があったわけではない。
「金持ちになりたい」
 などという漠然とした夢が、武則は一番嫌だった。
 本当は夢を持つというのは、えてしてそういう大雑把なところから入るものなのかも知れないが、武則には受け入れるだけの気持ちはなかった。
 どちらかというと、他の人と同じ考えでは嫌だと思っていた武則なので、ブームや流行には疎いところがあった。ブームに乗っかって騒いでいる連中を横目に見ていると、
「ただの虫の大群」
 のようにしか見えず、次第に遠目にしか見えてこない自分を感じた。
 ただ、それは決して上から目線というわけではない。上から目線になると、見たくないものまで見えてくるような気がしたからだ。あくまでも遠くから見ていて、その存在を意識されないようにすることが、武則の考えだった。
 だが、世の中は武則が思っているようには進んでくれなかった。これは武則だけではなく、誰もが感じていることだろう。まさかオリンピックの後に不況が待っているなど、想像もしていなかった。
 あれだけ建設ラッシュで、どんどん新しいものができてきて、やっとオリンピックの時には、諸外国に恥ずかしくないような都市ができたと思ったのに、オリンピックが終わったとたん、それまでの建設ラッシュがまったくなくなってしまった。
「大どんでん返し」
 と言えばそれまでだろう。
 歌舞伎などの舞台で、舞台全体が反転し、まったく違う舞台セットが現れる。早変わりのその状態を、観客はクライマックスとして賞賛の拍手を送っている。しかし、それはあくまでも歌舞伎の世界だけのことで、現実にどんでん返しが起こるということは、よくないことだと相場は決まっているような気がした。
「悪い状態からいい状態に移行するのには、かなりの時間が掛かるが、いい状態から落ちるのはあっという間だ」
 という話を聞いたことがあった。
 いい状態に向かうには、ゆったりとした上り坂を、ゆっくりと昇っていく。それは着実という意味もあり、その方が確実にいい状態に近づけるからだ。一気にいい状態になれば、どこそこに綻びを残してしまい、ロクなことにならないと思うからだった。
 その反面、いい状態から悪い状態に移行する時と言うのは、一気に落ち込むものだ。断崖絶壁から飛び降りるような感覚。歌舞伎でいうなら、奈落の底に叩き落されるとでもいうべきであろうか。
 完全に大どんでん返しの状態である。この状況を一体誰は想像しただろうか。当時の政治家には分かっていたのだろうか。分かっていて対策を取ったりはしたが、それ以上に不況の波の勢いは激しかったということなのか。世の中の波というのは、そんな簡単には理解できるものではないのだろう。いかに努力をしても解消できないこともたくさんある。特に経済推移など、専門家が考えただけでどうにかなるものでもない。しかも、専門家と言ってもたくさんいる。彼らの意見がすべて一致しているわけでもないので、どこを目指していいのかも問題になる。仮にすべての専門家が同じ道を模索したとして、それが正解だと誰が言えるだろうか。それを思うと、未来予想などできる方がおかしいというものである。
 武則が「石ころ」を意識したのも無理もないことだったのかも知れない。
 武則は中学時代にバスケット部に所属していた。小学生の頃には何もやっていなかったので、中学になって始めたスポーツに、入部当時はよく夜中など、寝ていて足が攣ったりしたものだった。
 寝ていても、足が攣るということは前兆として分かるものだった。
――うっ、ヤバい――
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次