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自殺と症候群

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 と言われることがあった。
 もちろん、誰も面と向かっていうわけではないが、どうやら女性社員たちは武則に対してそういうウワサを流しているようだった。
 武則はそのことを知らなかったが、もし知っていたとしても、それを聞いてビックリしたり悲観的になることはなかった。
 何しろ感情が死滅しているのだから、人に何を言われようとも気にしなければいいだけだった。
 武則は無意識のうちに、余計なことを考えないようにしていた。心配事などまったくの無用、心配して解決できることであればいくらでも心配するが、そんなことはありえない。それなら余計なことを考えないようにするのが正解なのだ。
 武則はまわりがいうように、
「感情が死滅している」
 というわけではない。
 きっと、他の人よりも理屈っぽく、理路整然とした考えを無意識のうちにできるだけのことだったのだ。
 だが、彼が無意識のうちにと思っていることは、本当は意識していることであった。意識しているから自分が孤独であることが分かるのであって。孤独を好きだと感じるようになれるのであった。
 そう、武則は自分が孤独を好きな人間だということを分かっている。ここまで分かってくると、それまでの自分の生い立ちも何となく分かってきた。子供の頃から親からは甘やかされて育ってきた。そのせいからか、まわりの友達からは胡散臭く思われていた。ただ、本当に胡散臭いと思われていた原因は、
「言動が理屈っぽいこと」
 だったのだ。
 子供の頃から勉強は嫌いだったが、理屈っぽいことに関しては本を読んだりして研究していた。
 もしこれが大人になってからであれば、
「ウンチク」
 として、悪い意味に取られることはないのだろうが、何しろ子供の世界のことである。
 得意げに理屈っぽいことを話すと、聞いている方はウンザリして、鬱陶しく思うに違いない。武則は中学に入る頃にはそのことに気付いて、自ら「ウンチク」を封印してきたが、再就職して自分がサラリーマンとして少し偉くなったかのように錯覚した時から、「ウンチク」が戻ってきた。
 ただ、偉くなったわけではないということは一瞬にして考えを翻した。ただそれは偉くなったと感じたことにだけ有効な考えで、それ以外の自分が偉くなったと思った時に同時に感じた感情にまで影響を及ぼすことはなかった。
 これが彼を中途半端に見える存在にさせてしまったのだ。
 呼吸困難に陥るようになったのは、そんな中途半端な自分がバランスを失ったことで起こった現象であり。まわりはもちろん、本人にも分かることではなかった。むしろ本人が一番分かるはずのないことなのかも知れない。
 武則は自分のことをどちらかというと分かっていると思っている方だった。
 確かにそうかも知れない。だからすぐに逃げに走ってしまって、それが、
「余計なことを考えない」
 という気持ちにさせてしまうのだろう。
 しかし、彼はそんな思いとは裏腹に、行動力には長けていたのかも知れない。それが「ウンチク」を口走ることで、ウンチクを語っている時は自分に酔ってしまうこともしばしばあった。
 当然まわりをしっかり見ることができず、何かを見ているはずなのに、見ている被写体をまったく意識しないことが多かった。
 目の前にあって実際に見えているのに、まったく意識に入ってこない。もしその時一緒にいた他の人から、
「あの時、一緒に見たじゃない」
 と言われても、ハッキリと見たと言えない自分がいる。
「ああ」
 と言って答えても、どちらかというと顔に出やすい方である武則には、すぐに他の人から感情を看破されてしまうことが多かった。
 武則はそんな見えているはずなのに意識することがないものを、「石ころ」のような存在だと思うようになった。
「石ころ:は見えているのに意識の外に置かれることで、
「かわいそうな存在」
 として少年の頃の武則には意識させられていたが、自分がそんな石ころのような存在になっているかも知れないと感じた時、自分をかわいそうだとは思わなかった。
「人から気にされないことの方がむしろ気が楽だ」
 という意識を持った。
 武則は自分が一人でいる時はまわりを意識しないが、人から少しでも意識されると増長してしまうところがあった。口数がとたんに増えてきて、それまでの自分とはまるで違う自分がいるように思えてくる。
 それまでは自虐的な感情が強かったのに、人から少しでも声を掛けられると、そこに自分のまわりに対しての影響力が強くなったことに気付く。
 いや、影響力が強くなったわけではなく、反対の意識だ。自分が今までまわりから意識されるべき人間であるということに気付いていなかっただけだと思い込んでしまう。それが増長を引き起こすことになるのだが、増長している時の自分は、
――俺以上に人への影響力のある人はいない――
 というほど自惚れてしまうのだが、一旦自惚れてしまうと、抑えが利かなくなる。
 それは今まで自分が自虐的だったことを言い訳にしてまわりを見てこなかったからであり、急に自分が日の目を見ると、眩しさから目を逸らしたくなるという感覚を忘れてしまったかのように、眩しさすら感じない不感症になってしまったかのようだ。
 そんな状態でまわりが見えなくなるのだから、当然自分のことも分かっていない。思い切り自惚れる自分に酔ってしまうと、
「今までどうして自分のことをもっと考えてこなかったのか?」」
 という疑問が生まれてくる。
 そうなると。今までの遅れを取り戻したくなるのは人間の真理だと言えるのではないだろうか。
 自分のいいところを知っていながら目を瞑ってきたのは、自虐的になってしまったことが原因だと思い込み。あくまでも、
「自分はもっと人から尊敬されるべき人間なんだ」
 という思いと、
「これまで考え方が偏っていたことで、ずっと損をしてきた」
 という思いとが交錯して、本当は矛盾している考えであっても、その二つを融合させることを考えてしまう。
 少なくとも自分がウンチクに自信を持っていることで、まわりの人も、
「もっと俺のウンチクを聞きたいに違いない」
 という思いに駆られる。
 それは完全な押し付けがましさなのだが、まわりの人はそれを咎めたりはしない。
 その理由として、自分がもし彼の立場で咎められたりすれば、嫌な思いをしてしまうのではないかという理由からではないだろうか。
 人は相手に起こる現象を、まず自分に当て嵌めて考えてしまうことも多いようで、そのために本当であれば、戒めたりするはずのことを、口にできない場合が往々にしてあるというものだ。
「自分と同じ顔をした人間が世の中には三人はいる」
 と言われているが、性格が似ている人となればどれくらいなんだろう?
 目の前の人も自分と同じような考えの人だと思うと、どうしても贔屓目に見てしまって、注意を促す時には細心の注意を払ってしまうことだろう。そんな思いをするくらいなら、余計なことを言わない方がいいと思うのも仕方のないことなのかも知れない。
 石ころというものをどのように考えるか、それは人それぞれなのだろうが、少なくとも、
「石ころになりたい」
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次