自殺と症候群
当然、退職金が出るわけでもなく、いきなり路頭に迷うことになった。彼は当時二十歳代前半で、やっと工場の機械を一人前に操作できるようになり、入ってきた後輩に指導係としての役目を負わされるくらいにまで成長していた。いわゆる、
「これからの前途有望な青年」
だったわけである。
幸いなことに、彼の家庭はさほど貧乏ではなく、父親の仕事は金融業で安定していたため、差し当たって生活に困ることはなかった。まわりはその日をいかにクラスかで困窮していたのに、それを後目に彼はゆっくりと再就職を考えればよかったのだ。
世の中はどれほど不公平にできているのか、その日一日をいかに乗り切るかと生活に困窮していた連中よりも武則の方が先に職が決まった。
武則は知らなかったが、どうやら金融業に勤務している父親が取引先に手をまわしたようだった。武則は再就職できたことは自分の力だとまでは思っていなかったが、それまで何のとりえもなく、その日をただ漠然と生きてきた自分が他の人よりも先んじて就職できたことには驚きとともに、それまで持ったこともなかった自信のようなものが少しは出てきた気がした。
だからと言って、新しく入った会社でやる気がみなぎっていたというわけではない。相変わらずの毎日を平凡に過ごすだけで、ほとんど何も考えていなかった。
傍目から見る分には、彼の心境を図り知ることは困難だった。再就職に一役買った父親ですら、
――これで一安心だな――
とホッと胸を撫でおろしたほどである。
父親が武則の仕事にこだわったのは、息子のためというよりも自分への保身があったのも見逃せない。いくら時代が不況に喘いでいるとはいえ、息子が無職でさらにそこから不良に走ってしまうことを恐れたのだ。
正直言って、恥と外聞を優先したと言っていいだろう。息子の恥は自分の恥だとでも思ったのか、見た目だけでもしっかりしてくれていれば、それでよかったのだ。
息子も息子である。そんな父親の意図を見抜くこともできず、流されるように生きている。だから、まわりの苦労している連中に先んじて就職できても最初は自分に自信が持てると思った時期もあったが、仕事を始めてすぐに、自分が会社でどれほどのことができているのかを思うと、今まで工場で培ってきたものも何ら役に立たない。それどころか、元々工場に勤めていたことが分かると、他の人たちの視線が冷めているように感じられたのだ。
父親が紹介してくれた会社というのは、不動産関係の会社だった。それまでの工場での勤務とは違い、パリッとしたスーツに身を包み、お金を持っている連中に高い土地や家を買わせるというやりがいの欠片もない仕事に完全に意気消沈していた。
そもそも、
「外見から入る」
ということに対して嫌悪しかなかった武則にとって、就職した不動産会社は、毎日が苦痛でしかなかった。工場のように自分で何かを作るということへの喜びもない。
「今までこの喜びがあったから、工場での勤務をやってこれた」
それを思うと、今の日々は苦痛でしかなく、一日に一度は不定期な時間であるが、呼吸困難に陥ってしまうほど、嫌で嫌で仕方がなかったのである。
そんな武則が呼吸困難を起こすのを毎日のように見ているまわりの同僚や先輩は、最初の頃こそ、
「大丈夫か?」
と心配そうに介抱してくれたが、そのうちに誰も構ってくれなくなった。
――またか――
という目で見られ、本当に白い目というのが存在するんだと思うほどにその視線は「上から目線」だった。
武則は完全に、
「オオカミ少年」
と化していた。
「オオカミが来た」
と毎日のようにウソをつきすぎていると、まわりから誰も信じてもらえず、最後には本当にオオカミがきたのに誰も信じてくれず、悲惨な結末が待っているというものである。
しかし、武則はオオカミ少年ではなかった。呼吸困難に陥るのは本当のことだし、そのたびにまわりに迷惑を掛けてしまう自分を情けなくも思っていた。
それなのに、まわりは信じてくれない。そんなまわりに対して申し訳ないなどと思っている自分も忌々しかった。
そのうちにまわりを信用しなくなり、
――どうせ信用されないのなら、こっちだって信用しない――
と思うようになると、呼吸困難に陥っても、それまでと心境は違っていた。
苦しいのには変わりはないが、それまでは、
「誰かが助けてくれる」
という甘い気持ちがあった。
しかし、まわりの冷めた視線を感じるようになってからは、誰も助けてくれないのが分かり、却って自分がしっかりしないといけないと思うようになり、意識が朦朧としている中でも、まわりから何かされないように警戒していた。まわりはそんな武則の変化に気付いている人などいないに違いない。
呼吸困難はそのうちに、最初の頃ほど苦しいものではなくなってきた。
ただ、感じている苦しみは今までと変わらないという意識があったのに、どうして緩和されたという意識になったのか、最初は分からなかった。しかし一週間もすればその理由が分かるようになってきた。
まず、呼吸困難に陥りそうになる時と言うのが前兆として分かるようになったということだ。前兆があれば、それなりに対処することも可能だ。毎日のように襲ってくるのだから、対処法というのも身体が覚えているのかも知れない。
そしてもう一つは、呼吸困難に陥ってから抜けるまでの時間が一定していることが分かってきたことだ。
これも前兆と同じで、いつ抜けるか予知できると、やはり対処法も何とかなるもので、それを超えると、次第に意識が朦朧としてきて、意識を失う寸前まで行く。
実際に意識を失うことはないが、この瞬間こそ、至福の時間のように感じられた。それまで苦しくてたまらないと思った時間を通り超えると、そこには恍惚の感情が湧いてくる。本当にこんなことがあるとは思っていなかっただけに、現実に戻った時は、苦しみは完全に消えているのだ。
至福の時間を感じることができるのは、
――意識を失う寸前で止まるからだ――
と思うようになった。
そのまま意識を失ってしまうと、至福の時間を味わうことはできない。失った意識の中で感じているのかも知れないが、それは夢を見ているのと同じで、目が覚めてからはまったく覚えていないのと同じだと思った。
武則はすでに童貞ではなかったが、果てる寸前の恍惚の感情を思い出していた。果ててしまうとそれまでの盛り上がってきた感情が一気に萎えてしまう。だから気持ちが高ぶってきても、そう簡単に果ててしまうことを嫌い、我慢するのだ。
性行為とはまったく逆の感情ではあるが、気を失いことが、性行為での、
「果ててしまう」
という行為と同意語であると考えると、寸止めされている瞬間こそ、至福の時間だと感じた理屈も分かる気がした。
このような感覚は理屈ではないと言えるのだろうが、武則は恥じらいという感覚をあまり知らない。性行為も淡々としたもので、感情というよりも本能の赴くままの行動だとしか思っていなかった。
それは本当に誰かを好きになったことがなかったからで、そのことを自分の中でかわいそうだとさえ感じることはなかった。
時々、
「荻島君は感情が死滅している」