自殺と症候群
――これって、ひょっとすると俺の才能なのかも知れないな――
と感じた。
いい作品ばかりを模索していると、一年にどれだけの作品が残せるというのか、二十歳からいくら生きても八十過ぎ、この間一年に一作品と考えれば、百にもいかない。それよりも一年に数作品と考えれば、どんな作家の残した作品よりもたくさんになる。
「どうせ世間に認められないのであれば、量だけでも秀でていればいいんじゃないか」
と思うようになった。
「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」
と言われるが。まさにその通りだ。
ひょっとすると、存命中に誰かの目に留まり、日の目を見ることになるかも知れないと思うと、期待はしていないが、それはそれでいいことだと、まるで他人事のように思ったのだ。
そんな発想を持ったのは、やはり父親からの遺伝であろうか、それともまったく違う父親への反発であろうか。武敏はハッキリとは分からなかった。
バブルが弾けて、本当に世の中に未曽有ともいえる不況が襲ってくる。武則のような会社は本当に綱渡りのような状態だった。しかも、貯蓄をしていたものがどうやら役に立たないと分かった時の武則のショックは計り知れないものがあっただろう。
そういう意味では武敏の、
「自分が生きた証を、どんな形でもいいから残したい」
という思い、さらには、
「質より量」
という考え方は遺伝に他ならないだろう。
だが、そんな武敏を父親は毛嫌いしていた。小説を書いているということも気に食わないようだったし、
「どうせなら、世に知らしめるような作品を作ればいいのによ」
と、吐き捨てるような言い方しかしない父親を、武敏の方も毛嫌いしていた。
ちょっとしたことで歯車が狂っているだけなのかも知れないが、一度離れてしまった歯車が噛み合うことは難しいようだ。しかも、お互いにかするようなところで接点がある。その接点をお互いに認めたくないというちょっとした意地が、お互いを許せないに違いない。
そんな二人を母親は、歯がゆい気持ちで見ていたことだろう。それぞれの本心までは分からないが、ちょっとどちらかが歩み寄れば、元々考え方は似ていると思っているだけに、これほど歯がゆい思いはないというものだった。
武敏は父親の苦労を分かっているつもりだが、どうすることもできない。その憤りが自分の世界に閉じ込めてしまうのだろうが、武敏は自分の人生を自分でどのように生きてもいいだろうという考えがあることから、歩み寄りに積極的になれない。
父親にも意地がある。何とかできるだけ自分でできることをするというのが、武則の考えだった。
そんな武則が行方不明になったのは、会社が二進も三進もいかずになり、自己破産を申し立ててからすぐのことだった。
妻としても、どこに行ったのか見当がつかない。
以前に自殺を試みたが自殺しなかったことで、
「まさか、また考えたりはしないでしょうね」
と思ったが、
「人間何度も死を意識することなんかできない」
と言っていた夫の言葉を思い起こさせるのだった。
だが、今回はさすがに自分の会社が倒産し、自分も破産ということになってしまった。息子もいれば自分もいる。そんな簡単に自殺などを想わないと考えていたが、一抹の不安を払しょくすることはできなかった。
「そういえば、あの人、『自殺菌』なんて言葉を口にしていたことがあったわね」
と静代は息子の武敏に言った。
武敏は自分の小説の中で、奇しくも「自殺菌」について書いたことがあった。これは偶然であろうか?
自殺菌なる言葉は母親からはおろか、父親からも聞いたことがなかった。ただ、
――俺が発想できるくらいだから、世の中には自殺菌なるものを信じている人は結構たくさんいるんじゃないかな?
とも思っていた。
確かに同じ発想は、一度ミステリーを読んでいる時に出てきたことがあったが、その小説ではただのエッセンスとして描かれているだけで、自殺菌のなんたるかというところまでは言及していなかった。もしその自殺菌という発想が世間一般に出回っていれば、武敏は逆に意識はしなかったに違いない。
――人の垢で汚れたネタを、自分の作品に生かそうなんて思ったりしないさ――
と考えたからだ。
だが、自殺菌という考えは頭の中から消えることはなかった。
「誰も描こうとしない作品」
そんな作品を模索して見るのも面白かった。
何も人から褒められる作品だけがいい作品ではない。あくまでも自分で納得しないと始まらない。
つまり武敏としては、
「自己満足できる作品」
これを目指して小説を書いているのだった。
武敏はその小説の中で、「自殺菌」を書こうかどうか迷っていた。ただ以前にも書いたことがあり、その内容をあまり覚えていなかったことから、今回は少し違った内容にしようと思った。
奇妙な味を題材にしていると、どんな話を書こうかというのは、ある程度絞れてくるのだが、今回はふとしたことから聞いた話を思い出したことで、これと自殺についての関係について書いてみることにした。
「親父が行方不明になっているのに、自殺について書くなんて、不謹慎ではないだろうか?」
とも考えたが、逆に福江不明というだけで死んだかどうか分からないだけに、自殺について考えてみるというのも悪くないことだと思うようになっていた。
今回の話は、ある医者から聞いた話である。元々医者のような高貴な人に知り合いがいたわけではないが、その人は精神内科の医者だった。しかもその先生は会話も達者で、結構分かりやすく話をしてくれる。
神経内科の先生と言うと、どうしても理屈っぽくなってしまうのではないかと思っていたが、そんなことはない。出会った場所が同窓会の場所だったというのも気分を和らげるにはよかったかも知れない。
そういう意味では精神内科の先生と言ってもまだ新人で、いわゆる知識だけは豊富だが、経験が伴っていないという感じで、経験が伴っていないだけに、余計理屈っぽくなりそうだったが、元々が気さくな性格なのだろう。話をしていると、まわりに女の子も寄ってきて、そのおかげか、話も半分面白おかしく聞けたものだった。
その時の話として聞いたものが、
「カプグラ症候群」
というものだった。
「カプグラ症候群? 何それ?」
と、女の子は茶化すような感じで言った。
適当にアルコールも入っているので、女の子も饒舌で、少しホラー的な話をしても、聞いている女の子は酔いに任せて、さほど怖がっている様子はない。それよりも話を興味津々で聞いていると言った方がいいだろう。
先生は続けた。
「カプグラ症候群というのは、一種の被害妄想のようなものだって言ってもいい。例えば自分の肉親だったり、親密な人が誰のまわりにだっているだろう?」
「ええ」
話し手の声のトーンに合わせて、相槌を打つ女の子の声のトーンも少し低めだった。
「その人たちのことを普通の人はまったく疑うことなく過ごしているんだけど、急に自分のまわりにいる親近者が、本当は偽物で、自分の知らない間に入れ替わっているんじゃないかっていう疑念を抱くことがあるんだ。それをカプグラ症候群っていうんだけどね」