自殺と症候群
ただ、この場合はどちらに重きを置くかということであるが、堂々巡りを繰り返すことは絶対だとすれば、矛盾をいかに説明するかということであり、矛盾が前提だとすれば、堂々巡りではないことになる。そうなると、説明がつかないことは、前者よりもたくさんあるのではないだろうか。
その理屈として考えられるのが、
「パラレルワールド」
という考え方である。
パラレルワールドは、
「今があって、次の瞬間には無限の可能性がある。さらに次の瞬間には……」
というもので、一種のネズミ算的に増えていく考え方である。
そもそも、無限の次に無限が広がっているという考え方もおかしなもので、無限が一番大きなものだという発想を果たしていないように感じられる。それを思うとどこかに堂々巡りが存在し、最後にはつじつまを合わせるようにできているのではないかと思うと、理屈としては成り立つのだが、これを納得するように説明することは困難ではないだろうか?
ある意味不可能に近いことに思う。それを「パラドックス」という言葉で表しているのではないかと武則は思っていた。
これは一度自殺を考えたから、思い立った発想であった。学者の偉い先生であれば、これくらいの発想は思いつくのだろうが、彼らは資料があって勉強しているから理解もできるのだろうし、柔軟な頭が理解させるのだろう。しかし、勉強もしておらず、頭が石のように硬い自分に、こんな発想が生まれるなど、明らかに死を意識したことで何かが弾けたのだと言えるのではないだろうか。
学者が勉強した資料としても、過去の偉人と呼ばれる人が発想したことである。ただ、彼らが当時本当に偉い学者だったのかどうか、疑わしい。ほとんどの人はそうだったのかも知れないが、中には本人が存命中には散々バカにされて、白痴呼ばわりされた人も少なくないだろう。それを後年の学者が彼の発想を裏付ける発想をして、やっと彼の功績が認められることになったということもあったに違いない。
世の中とはそんなものであり、
「死んで花実が咲くものか」
とよく言われるが、本当にそうなのか疑問であった。
武則の息子の武敏は、これと似たような発想を持っていた。
というよりも、まだ学生であったが、すでにこの世でのことを考えていることが多かった。
ただこの考え方は、元々の武則の遺伝子の中に組み込まれていて、それが息子である武敏に遺伝したのではないかという発想も成り立つのではないだろうか。
大学生の彼は、他の大学生のように、
「大学と言うところは、勉強だけではなく、友達をたくさん作って、サークル活動やバイトなどをして、今しかできない楽しみを味わうところだ」
という発想とは少し違っていた。
「大学云々ではないが、同じ人生を歩むのであれば、自分にしかできない何かであったり、形として自分が作ったものを何か残すことが大切なのではないか」
と思うようになっていた。
友達を作るのもいいし、サークル活動も悪くはないが、それよりも一人で何かに勤しむ方がいいと思っていた。
そのため、彼は芸術的なことを志していた。絵画に文学、そして音楽と、いろいろとやってみた。
それも、文学であれば、小説などの執筆であったり、音楽であれば錯視や作曲という分野である。
一番最初に挫折したのは音楽だった。どうにも楽譜というものに馴染むことができず、楽器の演奏も思ったようにできていなかった。しかも、楽器を教えてくれる人がいたのだが、その人は楽器の演奏に一種独特の発想を持っていて、作曲とは縁遠い、演奏に特化した教え方しかできなかった。
それは作曲を第一目標とする武則には容認できる発想ではなかった。先生とちょっとしたことで仲たがいをし、お互いに言いたいことをぶつけてしまったことで、気まずい雰囲気になってしまった。
先生の方も元々武敏の教えてもらうという姿勢に疑問を持っていた。
――この人は、真剣に楽器に向き合っているのだろうか?
と感じていたのだ。
一度そんな疑念を抱いた相手に対し、武敏のような気持ちを素直に表に出す人間の態度は、次第に相手に対して敵対心を抱かせる結果になっていた。
武敏はその先生とは結局そのあと一度も心を通じ合わせることができずに、別れてしまうことになった。
――これでよかったんだ――
と武敏は思ったが、きっとその考えは正解だったのかも知れない。
武敏はその後、小説の執筆に勤しむことにした。
小説の執筆というのは、ある意味自由である。文章の最低限な作法というのは存在するが、実際にどのように書こうが、読む人が分かりやすければそれでいい。もっと言えば、読者のことなど考える必要もない。大多数の人が読みやすいと思うのと、大多数の人が酷評をしても、一部に熱血的なファンがいれば、それはそれで優秀作品なのだという発想を武敏は持っていた。
彼はむしろ後者のような作品を作りたいと思っていた。それは存命中には評価されず、後年に現れた学者が証明してくれて晴れて日の目を見る自分の発想のようなものではないかと思うからだ。
武敏は自分そのまま小説執筆に没頭した。読書としては、中学時代から高校生の頃まで昔のミステリーを読んでいた。大正末期から戦後すぐくらいまでの小説家の小説である。猟奇の世界であったり、変質的な内容であったりと、今の世界では受け入れられるには時間が掛かりそうな内容であるが、中学時代には読み漁ったものだった。
五百ページの長編小説を一日で読破したこともあった。それこそ、
「食事もいそんで」
というほどである。
ミステリーの中でも猟奇的なものと、本格ミステリーと、一人の作家の対照的な作品を読むことで、自分の中に何かが生まれてくるのを感じた。
武敏は、
――自分にはミステリーは描けない――
と思っていた。
描くとすれば、「奇妙な味」と呼ばれるジャンルの作品で、しいてどうしても既存のジャンルで分けるとすれば、「オカルト」になるのではないかと思っていた。オカルトというのは、都市伝説のような非現実的な話の総称のようなイメージで、ホラーやミステリーや、SFの要素さえあるものだと解釈していたのである。
武敏は自分で作品を書いて、片っ端から出版社系の新人賞に応募してみた。しかしなかなか難しいもので、一次審査にすら通らない。
「俺には才能がないのかな」
と落ち込んでもみたが、せっかく始めたことをやめようとは思わなかった。
「今は認められなくとも、そのうちに……」
と思っていたからだ。
だが、もう一つ思ったのは、元々小説を書き始めたきっかけだった。
「この世に存在した証を残したいという思いがあったからだ」
それを思い出すと、人から認められる認められないは関係ない。
「いかに自分の作品を残すかということだ」
と考えるようになった。
まず考えたのは、
「質よりも量だ」
ということだ。
認められる作品を模索していい作品を書くという努力をするのも一つの姿勢であるが、武敏は自分の姿勢として、まわりがどう感じようが関係ない。あくまでも自分の作品をたくさん残すかということだと考えるようになると、発想がどんどん生まれてくるのを感じた。