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自殺と症候群

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 バブルが弾ける時代を大雑把に書いたが、実際には他にもいろいろな要因があり、いろいろな事態を招き、何とかしようとしている人も存在していたのは事実だろう。しかし、それをくどくど話をしても埒が明かない。ここでは、
「そんな時代だった」
 ということを示すだけにしよう。
 武則の会社ももちろん、バブル崩壊の煽りを受けないわけはない。実際には結構いろいろ考え、もがいてはみたが、時代の巨大な流れに逆らうことはできず、首の皮一枚で繋がっている状態だった。
 だが、武則の中では、もうすでに会社は倒産したような気になっていた。要するにすでに精神的には弱気になっていて立ち直ることは不可能な状態だったのだ。
「なんで、こんなことに」
 と言ってみたところで、状況は自分だけの問題ではなく、社会全体がそうだったのだ。
 自分だけが損をしていると思うのもきついものがあるが、まわりがそうだというのは、
――自分が悪いわけではない――
 という自己弁護はできるが、実際にはどうにもならないことでのジレンマが強くなってくるだけだった。
 今までにもジレンマというのを何度も味わってきたが、その都度感じるのは、
「なんで、こんなことを感じなければいけないんだ?」
 ということだった。
 その時の武則も同じ気持ちで、それこそ若い頃に感じた「自殺」を考えてしまいそうな自分がいることに気付いたのだ。
 その頃になると、自分がかつて自殺をしようと試みたことなど忘れかかっていた。完全に忘れてしまったわけではないが、さすがにバブルという浮かれたような時代背景は、過去という時間を忘却の彼方にさらっていくだけの力を十分に要していたのだ。
 武則は、自殺菌という発想も忘れていた。記憶の奥に封印していたのかも知れないが、実際に自殺を考えるようになってから、自殺菌という発想を思い浮かべることもなかったのだ。
 ただ、その頃の武則には、妻もいれば子供もいる。そんな家族を残して自殺を試みるなど、すぐに決められるものではない。
 逆に言えば、家族がいなければ、即行で自殺を試みていても不思議のないほどの状況で、会社はほとんど火の車だった。
 さらに、一番大切なことは、
「何を信じていいのか分からない」
 という思いが強くあるからだった。
 少しでも信じられるものが残っていれば、自殺など考えないかも知れない。一度は自殺しようとして辞めた時のことを想い出すと、
「死ぬ勇気なんて、そう何度も持てるものではない」
 と思い、死を意識することは金輪際ないだろうと、若い頃には思ったものだ。
 その時の感覚は今でも覚えている。自殺を試みようとしたことは覚えていないのに、自殺を思いとどまった時の感覚だけを覚えているというのも、実におかしなものだった。
 あの時、感じたのは、
――自殺してしまうのが怖い――
 という思いだった。
 自殺するまでに散々考えてきたはずだった。損得関係から、この世への未練、そして生き残ったとしても待っているものが何であるかということを含めて、すべてを考えたうえで、自殺するしかないと思ったはずだった。
 自殺するには当然のことだが勇気がいる。
「死んでしまったらおしまいだ」
 という言葉通り、どんなに後悔しても収まらない。
 しかし、後悔するのはこの世ではない。想像がつくはずもない。それよりももっとリアルなところで怖さがあるというものだ。どんな死に方をしたとしても、それは恐怖しかないことは分かっている。苦しみや痛みを伴う。即死だったとしても、その苦しみや痛みが肉体と離れた精神に乗り移っているかも知れない。
 そもそも、死んだら魂が肉体と離れてしまうというのは本当であろうか。そう考えた方が辻褄が合うということで言われ続けてきただけのことではないのだろうか。死の世界を見た人はいない。あくまでも創造でしかない世界を、いかに創造したとしても、それは架空の世界でしかないのだ。
 ただ、考え方はこの世にいるからできることである。あの世というものが存在し、そちらに魂が行ったとして、魂は何を思うというのか、天国と地獄という発想にしても、誰も見たことがない。冷静に考えれば宗教の教えとして天国と地獄という発想があった方がやりやすいというのも事実に違いないだろう。
 死を目の前にして、そんなことをいろいろ考えるのは、ほとんど初めてと言っていいほど、死に直面するのが初めてだったからだ。
 しかも、まだ二十代前半だったあの頃は、自分でも理屈っぽかったと思っている。
「自殺菌」などという発想も、死に対しての恐怖心を少しでも和らげるという発想から生まれたものだった。それを思うと、武則は自分が死を選ぶことに今日ふぉを感じていたのは間違いない。ただ、その頃には恐怖がどこから来るのか分かっていなかったので、漠然とした恐怖から、いろいろな発想が生まれていたことだろう。
 死を目の前にした人は、その瞬間、
「気が狂ってしまったのではないか」
 という発想がある。
 武則は、きっとそこまで行っていなかったから、自殺することができなかったのではないか。
「思いとどまった」
 といえば聞こえがいいが、究極の死の世界を垣間見ることができなかったから、死ぬことができなかったのかも知れない。
 そう思えば自殺を、「無事?」に遂げることができた人には、死の瞬間、死後の世界を見ることができたのかも知れない。そういう意味では、
「死の世界を見ることができるのは、死を目の前にした人が、死ぬ直前の一瞬で見るものなのかも知れない」
 という思いがあった
 これを考えた時、夢という発想が思い浮かんできた。
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める直前の一瞬で見るものだ」
 という話を聞いたことがあり、武則はそれをかなりの信憑性を持って感じていた。
 話を聞いた時には、
――そんなバカな――
 と思ったが、その聞いた話がなかなか頭から離れないのを自分でも不思議に思っていた。
 夢を見た時にも、夢を見るということを考えている自分がいて、どこか矛盾を感じさせることから、
――何かのパラドックスではないか――
 と思うようになった。
 パラドックスというのは、「逆説」という意味である。矛盾なことをづべて「パラドックス」で片づけられるとは言えないかも知れないが、矛盾と言われることのほとんどは「パラドックス」として考えてもいいのではないかと思っていた。
 武則はパラドックスの基本は、
「堂々巡りではないか」
 と思うようになっていた。
 特に思うのは、タイムマシンなどの異次元を考えた時、例えば過去にタイムトラベルした時、歴史を変えてしまうとどうなるかという発想に似たものがある。当然歴史は変わってしまい、自分も生まれるかどうか分からない。ということは、自分が過去に戻って歴史を変えるということも矛盾となるはずだ。これが、
「矛盾の堂々巡り」
 である。
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次