自殺と症候群
――もし起こさずにそのままにして、取り返しのつかないことが起こってしまったらどうしよう――
と、悩むはずだからである。
あれから三回も見回りの機会があり、一度もそう感じなかったということは、やはり勘違いだったと思うのが妥当ではないだろうか。
無事に朝を迎えて、患者も起床してきた。その中に普通に皆に朝の挨拶をしている武則を見たことで、
「よかった」
と安心した気分になった真崎看護師は、身体中から力が抜けてくるのを感じた。
「おはようございます」
と、真崎看護師が笑顔で武則に挨拶をしたが、
「おはようございます」
と言って挨拶を返してくれた派いいが、その表情は何か驚きのようなものが潜んでいるように感じられた。
――どうしてかしら?
昨日、彼に対して変な気持ちを持ったことで、自分が彼を見る目に対して、彼の方で違和感を感じたのではないかと思ったのだ。
だが、武則が真崎看護師をじっと見たのはその時が最後で、そのまま振り返ることもなく病室に戻った。真崎看護師も一瞬不思議な感覚に見舞われたが、それ以上は何も感じなかった。その日はそのまま明けになり、真崎看護師は家に帰ったのだが、次の勤務が二日後の日勤だったので、
――もうあの患者さんと会うことはないかも知れないわね――
と感じたが、二日後に出勤してみると、まだ武則は入院していた。
「あれ? あの患者さん、一日だけの念のための入院じゃなかったの?」
と他の看護師に耳打ちすると、
「そうだったんだけど、延期になったみたいよ、その原因については私も詳しくは分からないんだけどね。どうやら、交通事故の後遺症のようなものかどうか分からないけど、少しあるって話なのよ」
と言われた。
真崎看護師は少し不気味な感覚があったが、それがどこから来るものなのか、分からなかった。入院の見回りの時に感じた感覚を忘れてしまっているようだった。
その後遺症の件だが、少ししてから真崎看護師にもその情報が伝わった。どうやらあの冠者は、「夢遊病」の気があるというのだ。それを交通事故の後遺症によるものとするのか、それとも実際に既往性があり、たまたま今まで誰にも気づかれなかっただけだというのか、そのあたりも含めて調査するとのことだった。幸い、この病院には脳神経かあるので、調査もそちらで行うとのこと、真崎看護師としては脳神経に関してはまったくの素人なのでよく分からなかったが、その調査結果が出るまでの入院ということだった。
――でも、既往性って、本当に既往性があったとすれば、今まで誰にも発見されなかったというのはどういうことなのかしら?
と感じた。
既往性があるということは、常習性があったということなのか、それとも、何かの状況になれば、っ夢遊病を起こすということなのか、後者であれば、それは能神経に関係した何かであろうが、脳神経でどのような調査が行われるというのか興味があった。
彼女が最初に考えたのは、
「催眠療法」
であり、眠っている間に潜在意識を引き出すというものだが、夢遊病という症状には持って来いではないか。真崎看護師も夢遊病というのがどのようなものかよくは分かっていないが、少なくとも潜在意識が関係しているということくらいは想像がつく。そもそも夢というものが、潜在意識のなせる業だということを分かっているからだった。
武則の夢遊病の症状は単純なもののようだった。いつも同じ時間に、同じ場所に赴く。それを皆は、
「何か一つ気になることがあって、それを探しに行っているんじゃないかしら?」
というものだった。
真崎看護師もその意見には賛成だったが、検査結果が出るとその意見は崩れてしまった。何と、検査結果では脳内に異変は何も見られないということだったのだ。
ということは原因は他にあるというのか、真崎看護師だけではなく、彼に関わった人皆が何かモヤモヤした気分になっていた。ただそれは武則本人にとってもそうだったし、家族も同じ思いだった。
別に異常はないということで武則は退院した。そして、それから夢遊病という症状はまったく起こることがなく、
「あの時だけ、どうかしていたのよ」
という結論を見出すしかない状況だった。
武則もまるでキツネにつままれたような気分になったが、夢遊病を起こしたということは事実なだけに、簡単に頭の中から離れるということはなかった。
武則が夢遊病を起こした時に、医者から、
「何か夢を見ましたか?」
と聞かれた時、
「見たような気がするんですが、思い出せないんです」
と答えた。
それは本心だった。夢というものは、目が覚めるにしたがって忘れていくものなので、医者も武則も、覚えていないということに言及することはなかった。確かに武則は医者に聞かれた時は覚えていなかったのだし、医者の考えとしても、その時に見た夢というのが夢遊病に至る原因としてどこまで大きなものか疑問だったのだろう。
武則は医者に聞かれた時は確かに夢の内容を覚えていなかった。だが、検査結果が翌日には出て、すぐに退院ということになったのだが、その日の夢、つまり、夢遊病を起こしたとされる次の日に見た夢の内容は覚えていたのだ。
次の日に見た夢というのは、実に怖い夢だった。夢の中に、「もう一人の自分」が出てきたのだ。別に何をするというわけでもなく、自分をじっと見つめている。そして、その時の自分は誰もいない真っ暗な仲を徘徊していたのだ。
――まるで夢遊病じゃないか――
と思ったところで目が覚めた。
目が覚めるとまわりには誰もいなかった。額からはかなりの汗を掻いていて、すぐに手ぬぐいで額を拭った。しばらくして看護師が入ってきたが、その時には精神的に落ち着いていて、武則が怖い夢を見たということを悟られることもなかった。
武則はその日に見た夢を目が覚めても忘れなかった。
「もう一人の自分が出てくる夢」
それが今までに見た夢の中でも覚えているもので一番怖いものだった。
今までにも何度かあった、
「もう一人の自分が出てくるという夢」
武則が見た夢を覚えている時というのは、そのほとんど、いやすべてと言ってもいいだろうが、怖い夢だったのだ。その中でも一番怖い夢が、
「もう一人の自分」
が出てくる夢だったのだ。
その夢を思い出すと、今度は、その時に見た夢を、ごく最近見たのを思い出してきた。そが思い出そうとして思い出せなかった時だと気付くと、いわゆる夢遊病だと言われたあの日に見た夢であるということに気付いたのだ。
――怖い夢だったにも関わらず、思い出せないこともあるんだ――
と感じた。
覚えている夢のほとんどすべてが怖い夢だったというのはほぼ間違いにないことだ。しかし、怖い夢を見た時の夢を確実に覚えているのかと聞かれると、それは証明のしようがない。なぜなら、
「覚えていないものがどんな夢だったのか分からない」
という当たり前のことだからだ。
そんな当たり前のことをいまさらながらに考えてみる。もちろん、当たり前だと思っていたことだけに、考えるということをしなかったのも当然といえば当然だ。それを思うと、