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自殺と症候群

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 午後十時に病室を見回っていた真崎看護師にも、武則が気持ちよさそうに寝息を立てているのを見て、安心した。元々念のための入院だということは分かっていたが、事故に遭ってからするには何も異常のなかった人が、急に痛みを訴えるということも少なくはないと思っていたからだ。
――それにしても、気持ちよさそうな寝顔――
 自分は看護師とはいえ、ずっと朝から勤務を続けてきて、夜中まで患者を見なければいけないということで、気持ちよさそうな寝息を立てている患者を見ると羨ましく感じてしまう。
――いいなぁーー
 とは思ったが、看護師は自分が目指した仕事でもあるし、お給料ももらっているという意識があるので、羨ましくは思ったが、それだけのことだった。
 その日の入院患者は、思っていたよりも皆静かだったような気がした。真崎看護師が見回りを担当する日は、もう少し賑やかだったと思う。眠れない患者同士が一人のベッドのところでヒソヒソ話をしていたり、入院患者の中には、見回りの看護師に簡単な悪戯を企む人もいた。
 もちろん、脅かすようなことはしない。シーンと静まり返った病室で、悲鳴のようなものを挙げられれば、間違いなく悪戯をした人にロクなことはない。看護師からの顰蹙だけではなく、他の入院患者からも白い目で見られることが分かっていたからだ。
 孤独な入院生活では、同室の仲間とのコミュニケーションは大切だ。嫌われてしまっては元も子もない。
 その日は、武則の病室は、皆が寝静まっていて、起きている人はいなかった。午後十時の見回りも、この病室をほとんど意識することもなく、あっという間に見回った真崎看護師は、自分で午後十時に見回ったということすら記憶にないほど、平和だったのだ。
 次の見回りは、午後一時だった。
 その頃になると、今度は病室には少し変化が見られた。入った瞬間、いきなり何を感じたのかというと、
――何ていびきなんだ――
 というものだった。
 病室のメンツに関してはよく分かっているだけに、どの人のいびきなのか、大体の想像はついた。
「久保さんのいびきね」
 と分かっていたので、さっそく久保と呼ばれた患者のベッドを最初に確認すると、果たしてそのいびきの主はやはりその久保であった。
――相変わらずすごいんだから、私がこの部屋に入院していたら、きっと耳栓をしていないと眠れないレベルね――
 と感じたが、同じことを想っている同室の人もいただろう。
 実際に耳栓をして眠りに就いている患者もいて、用意の良さというべきか、それともそこまで追い詰められているというべきか、他人事とはいえ、いびきの酷さはかなりのものであることは察しがついた。
 それなのに、隣に入院している武則は、
「そんなことはまったく関係ない」
 と言わんばかりに、気持ちよさそうに寝ている。
 その姿は先ほど午後十時に見回った時と同じで、見ていてまたしても、睡魔に襲われそうに思えた真崎看護師は、その光景を見て、まるでデジャブに襲われたような感じがしていた。
――これ、さっきもまったくおんなじことを感じたのよね――
 と思い、気持ちよさそうに眠っている武則を覗き込んだ。
 すると、よほど深い眠りに就いているのか、武則はまったく意識がないように見えた。
「あれ?」
 その時、真崎看護師は目の前で眠っている武則を見て、
「この人、本当に生きているの?」
 と、思わず声に出して言ってみた。
 顔を近づけてみるが、相手はまったく気づこうとはしない。
 点滴を打っている手を触ってみると、普通に体温も感じるし、脈も感じられた。だが、顔を見ていると、次第に最初に感じた
「気持ちよさそうな寝顔」
 という感覚がなくなってきた。
 ずっと見ていたのだから、表情が変わったのであれば感じるというものだが、表情が変わってきたという印象はなかった。まったく表情が変わっているわけでもないのに、最初とその表情から受け取る感覚が違っているのだ。
 それを思うと、真崎看護師は背筋に寒いものを覚えて、自分がどうかしてしまったのではないかという錯覚に陥っていた。
 武則の表情は明らかな無表情であった。笑顔でもなければ、苦痛でもない。喜怒哀楽はまったく感じられず、
「死んだように眠っている」
 という表現がピッタリではないかと思えた。
 まだ病院に勤めてから二年しか経っていない真崎看護師だったが、今までに患者の死というものに何度か向き合ってきた。
 この病院が死亡率が高いというわけではなく、入院患者に結構な高齢者が多いというのがその理由でもある。一つは今でこそそこそこの大きな病院になっているが、昔はこのあたりに一つしかなかった貴重な総合病院で、そこの院長が今の院長の先々代にあたる。昔からの患者が、
「入院するならこの病院」
 ということで入院してくることが多かった。
 そういう意味で、この病院で息を引き取る患者も多かったが、そのほとんどは、自分から望んだもので、患者の家族も、
「最後を看取っていただいて、ありがとうございました」
 というセリフで、先生や看護師の労をねぎらってくれるのがありがたかった。
 それでも人の死ということには変わりはなく、少しの間は気が滅入ってしまうが、毎日の忙しさを一日でも味わうと、またしても真剣モードに戻ってしまう。それは仕方のないことであり、それでいいともいえるだろう。
 真崎看護師が勤める、そして武則が入院した病院というのは、そういう病院だった。
 真崎看護師は、この二年間で感じたことのない不気味な感覚を、その時に感じていた。もう一人の看護師か、ナースセンターにつめている看護師にこのことを話そうか迷った。しかし、れっきとした何かがあるのであれば当然報告の儀実が発生するだろうが、根拠も信憑性もないことで緊張を必要とする入院患者を抱えた夜勤を引っ掻き回すことは許されない気がした。
 もし、自分が相手の立場で、新人の看護師から余計なことを言われ、それがただの勘違いであったとすれば、いい加減にしてほしいと思うだろう。悪い冗談も言っていい時と悪い時がある。明らかに今は悪い時であり、緊張感を破ってしまい、ペースを崩してしまうと、本当に緊急事態に陥った時、冷静に行動できるかどうか分からなくなってしまうから
だ。
 真崎看護師は、少し冷静になってみると、
――これは私のただの思い過ごしだ――
 と思うようになった。
 冷静になっていない時に確認した症状に悪いところはなかった。ただ表情だけが自分の中で納得のいかなかったというだけのことで、冷静になれば、
「なあんだ」
ということを感じて、それで疑惑は終わりになってしまうのだ。
 その証拠に、その後三回あった起床時間までの見回りの間に、武則の様子が変わっていたわけではなかった。
 もし、少しでもおかしかったら、きっと彼の身体を揺するようにして、
「荻原さん」
 と声を掛けるか何かして、起こそうとしたからである。
――そこまではいくら何でも――
 という意識があったことから、勘違いだったのは明らかな気がした。
 もし、起こさなかったとしても、どうしようかと考えた時点で、
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次