自殺と症候群
「僕はしないんですよ」
というと、
「どうしてですか? 最近はゴルフの一つもできないと、経営者としては……」
と言いかけたが、それ以上は言葉を飲んでしまった。
彼に悪気はないのだが、どうしても、どこか押し付けがましいところがあるように見える。言葉尻だけを捉えるから押し付けがましく見えるのだが、本人は決してそんなつもりはないようだ。
「僕は、話があまり上手ではないので」
と最初に話をした時にそう言っていたが、仲良くなってみるとそんなことは感じなかった。
だが、時々感じる押し付けがましさを人によっては嫌に思う場合もあるのだろう。武則はまったくそんなことはないので、そんな風に感じる人の方がどうかしているとさえ思うくらいであった。
武則はその日、雑談を終えて、例の喫茶店に向かった。時刻は午後三時過ぎ、いつもの時間だったと言ってもいい。駅前を通り過ぎて感じたのは、
――相変わらず学生が多いな――
という思いであった。
ちょうど、学校が終わって、部活に参加していない生徒が帰宅を急いでいる時間である。そういう意味では半分以上が一人で歩いていて、足早に歩き去っていくのが目についた。
かと思えば、買い物に来ている主婦の足は遅かった。いろいろと物色しながらの買い物に、目は店頭に並べられた野菜や惣菜に奪われているようだった。
これもいつもの光景であり、武則は駅前を通り過ぎると、アーケードのないもう一つの商店街が横断している道との十字路に差し掛かった。
アーケードのない側の商店街というのは、最近店ができてきたところであり、洋菓子屋さんであったり、美容室、さらには銀行のような店舗が多く、商店街というよりも、少し上品な店が乱立しているところであった。
人通りはもちろん、商店街を通る人の方が圧倒的に多いが、夕方になると上品な店が立ち並ぶあたりにも結構人が現れるようになる。
商店街は昼から夕方にかけて、いわゆる
「歩行者天国」
となるので、車の往来は禁止だった。
それだけに上品な商店街から来る車は結構多く、その日も、人を掻き分けるように走っているのを見かけた。
そのうちに、一台が少しスピードを上げてきた。何を急いでいるのか誰も分からずに、
――少し乱暴な運転だな――
と感じている人も若干はいたようだが、ほとんど誰も気にしていなかった。
そんな時、武則は何を思ったか、いや、何も考えていなかったからなのかも知れないが、フラフラと横断しようとしたようだ。
「危ない」
という声がどこからともなく聞こえてきたが、武則はその声をまるで別世界の出来事のように聞いていたようだ。
「キキーッ」
という歯が浮くような音がなったかと思うと、武則は自分が吹っ飛ばされたのを感じた。
そして、気が付けば、病院のベッドで寝かされていた。身体を捻ろうとすると、節々が痛い。点滴をされているようで、身動きにはかなりの制限があった。
「社長、大丈夫ですか?」
と、声を掛けてくれたのは、事務をしてくれている女性だった。
彼女は、心配そうに覗き込んでいたが、それを見上げている武則がボーっとしているので、まだ意識が朦朧としていることを察したのだろう。
彼女はすぐにナースコールを押して、看護師を読んだようだ。
「どうされました?」
と看護師とともに医者もやってきた。
「社長が目を覚まされました」
と事務員がいうと、
「それはよかった。じゃあ、少し診ますね」
と言って、医者は聴診器を使ったり、瞼を指で開いたりして診ているようだった。
それを心配そうに横目に見ていた事務員だったが、
「もう大丈夫ですね」
という先生の言葉に、
「ふぅ」
という安堵の息を吐いた。
「僕はどうして?」
と聞くと、医者は、
「荻島さんは交通事故に遭われたんですよ。横から車が突っ込んでくる形で、少し吹っ飛ばされたようだったので、大丈夫かと思ったのですが、骨が折れているわけでも大きな怪我をしたわけではないんです。吹っ飛ばされたことが却ってよかったのかも知れませんね」
と言っていた。
その横で看護士が点滴の確認をしているが、
「今日はここで一日、念のために入院してください。明日もう一度検査して、問題なければそのまま退院されて構いませんので」
と言われ、事務員は本当にホッとしていたが、当の本人である武則には、まだよく分かっていなかった。
「奥さんにも連絡を入れましたので、もうすぐ来られると思います」
と事務員は言った。
その言葉通り、それから十分もしないうちに妻の静代と息子の武敏がやってきた。武敏は中学生になっていて、少し大人っぽくなった感じを、妻と一緒に感じていたのだ。
「あなた、大丈夫?」
と妻の静代が声を掛けてきた。
その横で何も言わずに武敏が立っていたが、先に母親に声を掛けられたことで、自分から声を掛けることができなくなってしまっていた。
その気持ちは同じ男である武則にも分かった。
――そういえば俺も、中学時代の思春期の頃には、自分が最初に声を掛けたんじゃなければ、何も言わなかったな――
と感じた。
それは今でも同じことだが、その状態に落ち着いたのは、中学生の頃の思春期からだったということは明白である。
「大丈夫だよ。ちょっとその時の意識がないので、自分ではよく分かっていないんだけど、先生の話では別に外傷はないということなので、問題なければ、明日にも退院だ」
というと、静代は本当によかったという表情で武則を見つめた。
静代はかつて武則が死を意識したことを知っていた。それだけに、
「一度死を意識した人というのは、死から逃げられない」
という話を聞いたことがあったので、それが今回の事故で頭をもたげたらしい。
もし、今回の事故で死ぬようなことがあれば、あの話はただの都市伝説ではなく、ハッキリとした信憑性のあるものとなってしまう。
いや、何よりも現実的に夫に死なれてしまうと困るという思いが前面にあった。少なくとも事故の一報を聞いて病院で問題ないということを聞くまでは、頭の中でいろいろなことが駆け巡っていた。
――もし、このまま死んだらどうなるのだろう? 家族が路頭に迷ってしまう。自分ももっと働かなければいけないし、生活だけではなく、息子の高校進学にまで頭が巡ってきた――
それよりも夫が経営している会社である。社長がいきなり死んでしまったら、会社が倒産などということになると、自分たち家族だけの問題ではなくなってしまう。静代は短い間に結構いろいろなことが頭を巡っていた。そのために、一つ一つを整理することができず、混乱のまま病院に到着した。阿多阿野中はパニックで、結局は無事であることを最初に確認することだけしか考えていなかったと言ってもいいだろう。
静代の狼狽ぶりは息子の武敏には意外だった。いざという時には家族の中で一番冷静なのだと思っていた母親が、ただの事故だけでここまで狼狽するなど思ってもみなかったからである。
「お母さん」
思いつめたような顔をしている母親に何を言っても通用しないと思いながらも、聞いてみた武敏だったが、予想通り、返事はなかった。