自殺と症候群
その性格が子供の武敏に遺伝していないことを祈るだけだったが、まだ小さい頃の武敏にはそんな性格が見えていなかった。
武則が自己暗示に掛かっている時、静代は何かを口にするわけではないが、なるべくそばにいようと思っていた。武則の自己暗示は、傍目から見ている分には、誰にも自己暗示に掛かっているということは分からない。ずっとそばにいる静代だから気付くことで、それだけ大したことではないと思えるのだが、それだけに解消させることも難しい。
そのうちに、次第に大きくなってくる自己暗示もあった。武則本人は、他人と同じで、他人が気付かない間は自分が自己暗示に掛かっているのを意識はしないない。だが、静代を含めて、まわりに、
「何かがおかしい」
と感じさせるようになると、武則の中で、
――これは自己暗示に掛かっているな――
ということも分かってくる。
それも、どんな自己暗示なのかも分かってきていて、それに対するとりあえずの対処法も理解はしていた。
しかし、自己暗示を解くことはできない。自分が掛けている暗示なので、自分でしか解くことができないはずなのに、自分には解けないと思っているのだ。だから、究極、
――自己暗示を解くことはできない。だから、沈静化させるしかないんだ――
と思うようになった。
つまり、自己暗示とは共存していて、それをなるべく表に出さないようにするにはどうすればいいかということを考えるしかないのだ。
普段のように自分で意識していない程度の自己暗示であれば、それはまったく問題ないのだが、意識しなければならない自己暗示であれば、解こうという無理な意識をしないようにしている。
自己暗示は、必要以上に意識しない方がいいのだろう。それを教えてくれたのが、静代だった。
「いいのよ」
この言葉が武則の胸を貫いたのだが、それをいつどこで聞いたのかも分からなかった。覚えているはずなのに、記憶が交錯してしまっているのか、正確な場面を意識させようと故意に紛らわせているのか、武則には分かっていなかった。
ただ、何か考えることがあると、いつも最後に静代の言葉がこだまして、
「いいのよ」
と言われたような気がして、一気に身体から力が抜けていくのを感じた、
「癒し」
と言われればそれまでなのだろうが、耳元で囁かれたような気がする。
耳元で囁かれることが男性ホルモンを刺激し、普段よりもさらに彼女のハスキーな声が響いてしまい、重低音がこれほど響くものだと思ってもいなかった。
「武則さんは、それでいいの」
何がいいのかよく分からないが、自然体が一番だと言われているような気がして、それは武則にも思うところのある言葉なので、十分に癒しになる気がした。
自己暗示というものを悪いと考えていた自分もいるが、実は自己暗示を自分の性格として悪くない部分を模索している自分もいる。それを武則は意識し始めていて、静代がいなければ、そんな思いもなかっただろう。
「静代と一緒にいると、何もかも忘れてしまうことがあるんだ」
と武則がそういうと、
「あら、やだ。それって私が悪いということなの?」
とおどけたように、少し大げさな態度を取った静代だが、こんな態度を取るということは、本当は思ってもいないことをリアクションしたという意味に捉えることもできる。
そんな静代の気持ちを武則も分かっていて、
「悪いなんて言っていないさ。いてくれるだけでいいんだ」
と、本当に静代が聞きたいセリフなのかどうかを模索しているように答えた。
二人の会話には、どこまでが本心なのか分からないところがある。それが大人の会話を形成しているようで、武則は嬉しかった。静代にしても悪い気はしていない。お互いに本音を隠しているように思えるが、別に相手の腹を探っているわけでもない。なぜなら腹を探る必要もないほど、相手のことを分かっているとお互いに感じているからだった。
武則は静代の包容力に、静代は武則の依頼心に傾倒していたと言ってもいい。
「静代に抱きしめられている感覚があるから、静代から甘えられると何でもしてあげたくなってくる」
と武則は思っていた。
主役はあくまでも自分であるが、主役の力を引き出してくれるのは、静代である。しかし引き出した力を与える相手はこれも静代であり、お互いに阿吽の呼吸でキャッチボールでもしているような感覚だった。
ただ、この武則の思いが実は、自己暗示であった。
自己暗示を掛けないようにしようと思うと、自己満足に走ってしまいそうになるのを感じた武則は、ジレンマになっていた。自己暗示を掛けるのもあまりいいことではないが、自己満足はもっと悪い気がしたからだ。
だが、それが間違いだということに武則はいつしか気付くようになった。何が間違いなのかというと、
「自己満足が悪いことだ」
と感じたことだった。
自己満足というのは、自分が他人よりも余計に満足することであって、決して悪いことではない。自分が満足もしないのに、人に対して勧めたりすることはできないだろう。そう思うと、
「自己満足をしないようにするのではなく、自己満足もできないことを恥辱だと思わなければいけない」
と感じるようになった。
自己暗示に関しては、これも本当に悪いことなのかと感じるようになったのは、自己暗示であっても、それまでできなかったことができるようになるのであれば、それはそれでいいことではないだろうか。
「自分さえよければいい」
という考えが、自己満足であったり、自己暗示に影響していると思うから、悪いことのように感じられるのであって、決してどちらも自分さえよければいいなどという考えに基づいているわけではないだろう。
ちょっとした言葉の使いまわしで、勘違いがあったり、思い込みをしたりすることがある。
「それが人間だ」
と言ってしまえばそれまでなのだが、人間であるがゆえに、一歩立ち止まって自分を見返すことができるともいえる。
猪突猛進というのは、時として悪いことではないが、突っ走りすぎて、足元が見えなくなることへの警鐘でもあるだろう。自己暗示にしても自己満足にしても、行き過ぎを戒めるという意味で使われている言葉だと思えば、他人の言っていることも分からなくもない。
しかし、それをまともに受け取ってしまうと、いいことと悪いことを混同してしまって、何をしなければいけないのかが見えなくなるだろう。それをしないようにするには、やはり自分というものをしっかり持っている必要がある。その意味でも自己満足も自己暗示も必要なのではないかと武則は感じていた。
このことを静代にも話したことがあった。静代は黙って聞いていたが、最後に一言、
「あなたがそう思っているのなら、それが正解なのよ」
と言ってくれた。
きっと、このセリフは武則以外にも当てはまることであろう。しかし、一番言ってほしい言葉を一番言ってほしい人に言ってもらえる喜び、それを味わってしまうと、その言葉の重みは、今までに感じたことのない重さにあるに違いない。
「ありがとう、静代」
と一言礼を言うと、静代は黙って頷いていた。
それこそが阿吽の呼吸というものなのだろう。