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自殺と症候群

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 学生時代によく友達と一緒に勉強していたのを思い出した。友達の家に行ったり、こちらの家に来たりして、実際には勉強と称して雑談したり、マンガを見たりだった、今のようにゲームでもあれば、それこそ勉強どころではなかっただろうが、それほど熱中するほどの娯楽があったわけではなかったのは、幸いだったのかも知れない。
 そんな時代が自分にあったなんて、思い出すこともほとんどなかった。思い出したとしても、それが自分のことであったのかが疑問に思うほど、遥かかなたの遠い昔の出来事であり、下手をすると他人事のようにしか思えなかっただろう。
 そんな武則も、静代と知り合って、自分がかなり丸くなっていることに気付いた。それは静代と知り合ったからなのか、それとも死を意識するところまで来てしまったことでの心境なのか、ハッキリとは分からなかった。しかし、その両方があったからこそ丸くなれたのは事実なのだろうし、探求する必要は、この際ないような気もしていた。
――それにしても、子供ができて喜ぶようになるまで、よくなれたものだな――
 と感じた。
 それは自分の中の余裕がそう感じさせるようで、思わず溜息混じりで感じたということを自覚していた。まだ実際に生まれたわけではないので、これが本当の気持ちなのかどうかは分からないが、
「子供が嫌いだったり、好きでもないと言っているやつに限って、子煩悩だったりするからな」
 と言われるのは事実のようなので、武則も自分がそうなのではないかと思うようになっていた。
 それは自己暗示に近いものであり、その自己暗示がいつまで続くのか、自分でも興味深いところであった。
 相変わらず、近所の公園での子供の声を聞くとウンザリきてしまう。だが、最近は妻の静代と一緒に公園に来ることで、安心感を得るようになった武則だった。
 結婚してからというもの、妻と一緒にいることが多くなった。付き合っていた時期が短かったこともあって、結婚という儀式があっただけで、まだ恋愛が続いているような気がしていた。だが、実際には静代の身体の中で一つの生命が確実に育まれているのであって、意識していない武則をよそに、意識していないつもりでも、いやが上にも身体の変調を気にしなければいけない静代がいた。
 つわりはさほどひどいものではなく、それが武則に妊娠というものがさほど意識させるものではないと思わせた。
「大丈夫かい?」
 と言って、手を差し伸べてあげるのも、別に妊婦だからだというわけではなく、奥さんに対して気を遣っているだけだった。
 近所の公園のベンチに座って公園内を見ていると、なぜか落ち着いた気分になれた。子供の頃は公園があまり好きではなかった。あまり表で遊ぶことが好きだったわけではないのに、友達が勝手に誘いに来る。親の方も、
「お友達が来てるわよ」
 と言って、武則を呼びにくるものだから、むげに断ることもできない。
 それをいいことに、武則は公園で遊んでいても、いつも目立たないようにしていた。鬼ごっこをすればいつもオニであり、ドッチボールをすれば、最初の標的はいつも武則だった。
 要は人数合わせであった。
 それを他の連中は、
「お前を誘ってやってるんだぞ。ありがたく思え」
 とばかりに上から目線だ。
 そういえば、そんな上から目線が嫌いだったはずの武則が、よく静代と結婚まで行き着いたものだ。付き合った期間もさほど長かったわけでもなく、結婚にまで至ったのは、寂しさと、一度は死のうと考えたことで、気持ちがある程度大きくなってしまっていたのが原因ではないだろうか。
 公園のベンチにいると、そんな少年時代の嫌な思い出がよみがえってくるはずなのに、落ち着いた気分になれるのは、一度死を覚悟したからだと考えるのが一番妥当なのかも知れない。
――死ぬことを覚悟したことを想えば、子供の頃の嫌な思い出なんか――
 と考えてみたが、実際に小学生の頃を思い出すと、悲惨だった思い出がまるで昨日のことのように思えた。
 そのくせ、時系列でいけば、自殺を考えた時の方がよほど近いのに、思い返すこととしては、小学生の頃の方が間近に感じる。
 それは、死を意識したことを意識の外に追いやりたいという思いからなのか、それとも小学生の頃のことを想い出したくないという一心が、記憶の扉を開かせる本能のような働きをしたのかのどちらかに思えた。
 公園で佇んでいると、隣にいる静代が安心感を与えてくれるのだが、気が付けば公園で遊んでいる子供たちも、それを見ている親たちも、さらには隣にいるはずの静代もいなくなっているという錯覚があった。
 真っ暗な公園に、スポットライトが当たり、そこに一つのベビーカーが置いてある、中からかすかに赤ん坊の泣き声が聞こえるが、それが自分の子供であるということを武則はすぐに悟った。
「武敏」
 と叫んで、ベビーカーを覗き込んだが、そこには子供はいなかった。
 ただ、泣き声だけが反響しているが、その反響はどこから起こったものなのか、まったく見当もつかなかった。
――あれ? 子供の名前なんてつけてもいないのに――
 としばらくしてから、いまさらのように気付いたが、その時の印象が深く残っていて、子供の名前を「武敏」にしようと、武則は考えていた。
 不思議なことであったが、あれは子供が公園デビューしてすぐくらいの頃、妻の静代が話すのには、
「あなたは、私が妊婦の時に、公園に付き合ってくれたことはなかったわね」
 と言われたことだった。
「えっ、何を言っているんだ?」
 と言おうとしたが、その言葉になぜか信憑性がないような気がして、武則は言葉をそのまま飲み込んだのだ。
 言われるまで、公園デビューのことを想い出すのはそんなに難しいことではなかったが、実際にそういわれると、本当に公園に付き合っていたのかどうか、自分でもすこし不安に感じてきた。
――あれだけ意識があったのに――
 人の言葉を鵜呑みにするところがあった武則であったが、それは一種の自己暗示に近かった。
 武則はそれを、自分の素直な性格が及ぼしたものだと考えていたが、それは都合よく考えた結果だったのかも知れない。
 素直な性格が自己暗示を生むというのは、少し突飛な発想なのかも知れない。なるほど、理屈としては合っているような気がするが、自己暗示というのは、恐怖心を元に生まれるものだと思っていた武則とすれば、素直な気持ちになるのも、どこか恐怖心によるところがあるのではないかと思うのも、無理のないことだと思った。
 武則は自己暗示に気付き始めたのは、実は妻の静代の存在が影響しているというのは皮肉なことだった。
 静代と再会した時、武則は静代のことをそれほど意識はしなかった。そもそも自分の好きなタイプとは違ったからだ。
 武則の好みのタイプは、ぽっちゃり系の女性で、身長もそれほど高くない。いわゆる品行方正なタイプが好きだった。
 しかし、実際の静代は名前の通り、静かな雰囲気で、スラリとした風体に身長もあるので、
「お姉さん」
 のような存在だと言ってもいい。
 ただ、妖艶な雰囲気があるわけではなく、才色兼備と言った方がいいのか、妖艶さがないとはいえ、
「大人の女性」
 を十分に意識させた。
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次