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自殺と症候群

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 武則のそんな様子を見ていると、急に自分が女性であることを思い出した。性別としてはずっと女性であり、仕方がなかったとはいえ、女性というものを武器にして、水商売に足を踏み入れ、それをいかんなく見せつけてお金を稼いできた。
 男性からは貢がれることもあった。
――私は自分の身体の中に「オンナ」という武器を持っているんだわ――
 と感じたものだ。
 誰から与えられたものでもない。しいて言えば生んでくれた両親なのだろうが、それでも育ってきたのは自分であり、自分の努力も十分に評価されるびきであると思ったとしても、それは無理もないことである。
 だが、それは表に向けた一方通行の意識だった。そうではなく、武則の視線は、自分に対して向けられたものであると同時に、
「俺も見てほしい」
 という彼の意志も伝わってくるのであった。
 そう考えると、
――一方通行の意志なのは『オンナ』を感じる時で、双方向の意志を感じるのは、『女』を感じる時なんだわ――
 と思うようになっていた。
 そう思うと、「オンナ」は意識して作り上げたものであり、「女」は無意識に作り上げられたものだと言えるのではないだろうか。どちらが本当の自分かということを考えると、おのずと答えが見えてくるように静代は感じた。
――自分で納得したことが自分にとっての真実なんだわ――
 という思いを抱いたが、その思いはその時から静代の中で、自分の本質に一番近い感覚になっていた。
 静代はそのことを武則から教えられたような気がした。その証拠が、
――自分の身の上を話すことがある相手なんて、きっと現れない――
 と思っていたのに、いとも簡単にアッサリと話してしまったことで、それだけ武則のことを想っていると感じたのだ。
 それを愛情だと感じるまで、静代には少し時間がかかった。それが恋愛感情だということに気付かなかったわけではない。自分のような一度は落ちるところまで落ちたと思っている女が、まともな恋愛などできるはずはないと思っていたからだ。
 落ちるところまで落ちたと思っている、その「落ちるところ」というのは、静代にしか分からないところであり、誰にも口にできない部分だった。口にしようにも、どう説明していいのか困るところでもあり、そのせいからか、恋愛というのは、自分のまわりに存在している結界の向こうにあるもので、見ることも触ることもできないと思っていた。
 だが、それをこじ開けてくれた人がいた。それが武則だった。
 今まで静代に言い寄ってくる男性は大げさではあるが、星の数ほどいた。
「ちょっとおだてれば、簡単にオチるだろう」
 とでも思っているのだろう。
 ただ実際に、上から目線で、男性を寄せ付けないタイプの女性というのは、口説いてみると案外簡単にオチると思っている男性は少なくない。単純に女性が上から目線なのは、寂しいからだと考えている男性が多いということであろう。実際にすぐに靡いてしまう女性も少なくない。男女の関係というのは、実に不可思議なものである。
「私なんか、一生結婚できないと思っていた」
 と、静代は言っていたが、それは本心だっただろう。
 この言葉を時々口にする女性がいるが、彼女たちと静代は明らかに違っていた。だが、静代には彼からプロポーズされるという予感があった。もっとも、
――結婚するなら、この人以外には考えられない――
 と思ったのも事実で、こんな気持ちになるのは、もちろん初めてだった。
 一種の初恋だと言ってもいいが、
「初恋というのは儚いもので、決して結ばれることはない」
 と言われるのが、静代には気になるところであった。
 だが、そんな気持ちは片隅にあっただけで、実際にはプロポーズされ、それを受け入れることで、結婚まで一気に加速した。
 結婚してからすぐに子供ができたことは、二人には喜ぶべきことだった。
「まだ若いんだから、結婚してからしばらくは子供を持たずに、新婚気分を味わっていればいいよ」
 と言ってくれる人もいたが、正直、武則には分からなかった。
――新婚生活に子供がいても別にいいんじゃないか?
 という思いがあったからだ。
 それは静代も同じであり、彼女も子供を授かったことを素直に喜んだ。大げさにされるとそれはそれで白々しい気がするが、そういうわけでもなく、自然に見えることが武則をも子供が授かったことを嬉しいと感じさせた。
 ただ、実際には実感が湧いているわけではない。武則は本当は子供が嫌いだった。誰にも話したことはなかったが、言いたい放題、やりたい放題で、親もいろいろな人がいるから、子供もそれぞれ別々の行動を取る。泣きわめいたり、大声で叫んだり、まわりを気にするところがまったくない。
「それが子供というものだ。お前だって子供の頃はそうだっただろう?」
 と言われるが、どうにも納得がいかない。
 自分が子供の頃は、うるさくしていると、自分の親でもないアカの他人からでも、平気で、
「静かにしなさい」
 と言われたものだった。
 自分の親から言われたのであれば、どこか反発心も沸くというものだが、アカの他人から言われてしまうと、子供であっても、恥ずかしいという気分にさせられる。それは人から言われるまで気付かなかったことに対しての思いと、他人が言うくらいだから、相当なものだったんだという両方の思いを同時に感じるからだ。
 それなのに、今の親は、いや大人はどうして子供を好き放題にさせておくのか、それがよく分からなかった。
 子供に対しての虐待であったり、家庭内の暴力というのが言われ始めたのもこの頃からだったのかも知れない。少しずつ社会問題になってきていることで、問題として知っていて、身につまされる世代もあれば、問題は知っているが、自分とは関係のないところで行われていることなので、他人事のように思う世代もある。まったく気にもしない世代は論外としても、やはり自分の身に直接降りかかってこないことは、実感が湧くわけもなく、想像に値するものでもないだろう。
 かと言って、人に気を遣うことがあまり好きではない武則は、気を遣う以前のやりたい放題の子供を見ていると腹が立ってくるのだ。対象である子供に対してはもちろん、親に対しても同等の、いや、さらなる立腹で、恨みに思うほどにまでなっていた。
 そんな感情が最盛期の時は、
――子供なんかいなければいい――
 と思うようになり、自分の子供ですら、ほしくないと思っていた。
 自殺を考えた時、一人で死んでいくということに対して、あまり感情が移入していなかったことからも、寂しいという感情が欠落していたのは間違いないだろう。それは普段から、寂しいという感情がマヒしていると言ってもいい。自分のまわりに人がいれば寂しくはないだろうが、煩わしいこともいっぱいある。それが嫌だったと言ってもいい。
 そういう意味では、今の時代の社会問題は、その時の武則の心理状態を反映しているような気がした。
「人とは一緒にいるだけで安心する」
 という人もいたが、それが寂しさと深い関係にあることは周知のとおりである。
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次