自殺と症候群
実際には、そこまでも思っていなかったようだが、彼女の方からすれば、余計な詮索をされることもなく、何を考えているか分からないところもあるが、自分のことをしっかり見つめてくれているようで、悪い気はしなかった。
武則が彼女を見つめていたのは、別に彼女のことを真剣に愛しているわけではないと思っている自分にどうして寄り添おうとしてくれるのか、それが単純に疑問だったからである。
彼女の方からすれば、
「この人は他の男性にはない何かを持っている」
という気持ちがあった。
彼女は結構モテる方で、よく街でも声を掛けられていたろりした。その意識があるから、自分がお姫様にでもなったような気がして、結構上から目線で男性を見ていたことがあったが、それも次第に自分だけが浮いてしまっていることに気付くと、まわりがもう自分を相手にしてくれないと感じた時、すでに手遅れだと悟ったのだ。
彼女がそのことを感じたのは、結構早い時期だったような気がする。だが、刻々と移り行くまわりの流れは、彼女の想像をはるかに超えていた。流れを感じることができるだけ彼女の目は節穴ではなかったということであろうが、結局それでも自分だけが孤立してしまったことに後悔の念はハンパではなかった。
彼女の名前は、川上静代という。中学時代まではあまり目立たないどこにでもいるような少し暗めの女の子だったが、高校生になって、スタイルの部分でうまい具合に発育し、それが男性の目にピッタリヒットしたのだ。男性から見て、淫らに見えるその肉体に、どこか幼さが残る表情のギャップが、目を引いたのだ。いわゆる
「ギャップ萌え」
とでも言えばいいのか、武則も正直に言えば、中学時代から彼女にはその素質があることは見抜いていた。だが、高校に入ると違う道を歩むことになった二人なので、
――しょせんは合うことはないんだ――
と、武則を諦めの境地に至らせたのだ。
彼女が自分のことで後悔することが癖になってしまったのは、中学時代からのことだった。
実際にどこにでもいるような暗いタイプの女の子だったが、本当は、
「他の人と同じでは嫌だ」
と感じるタイプだった。
それは武則と同じ性格であり、武則と違うのは、
――自分と同じような性格の人は、他にもたくさんいるはずだ――
と思っていたことだった。
武則の場合は、自分の性格を、
――自分独自のもの――
と考えていて、似たような性格であっても、微妙なところで同じ人がいるはずはないと思っていた。
つまりは、
「少し似ているだけであれば、それは違うものだ」
と考えることだった。
これが静代とは違う考えで、彼女は逆に、
――少数派の考え方は、皆似ているので、一緒に考えてもいいのではないか――
と感じていたのだ。
同じような考え方を持っていても、その根底にある考え方は正反対だった。そのことを武則は分かっていたが、静代は分かっていなかった。それも二人の違いであるが、どちらも分かっていないよりもいいのではないか。二人とも分かっているとそこから先は発展性もないし、どちらも分かっていなければ、平行線となってしまって、二つが交わることなどないと言えるのではないだろうか。
武則は、次第に静代に惹かれていく自分を感じていた。静代の方とすれば、武則が自分に興味を示してくれたことが少ししてから分かってきた。
最初は、
――やっと興味を示してくれた――
と思って喜んでいたが、そのうちに、
――あれ? 何かが違う――
と思うようになった。
武則に対して抱いていた気持ちの何かが違っていたことに気付いたのだろう。
静代は武則の、
「勘の良さ」
に惹かれていた。
自分が気付かないことに気付いてくれる武則の気遣いが嬉しかったのだが、武則は本当は気付いてくれて自分のためにしてくれているのではないという思いに駆られるようになってきた。
その考えは、
「当たらずとも遠からじ」
であった。
武則が気付いていたのはあくまでも、
「自分のこと」
だったのだ。
自分のことに気付くことで、相手も見えるようになったというのが本当のところであるが、静代は最初から、
「彼が自分を見ている」
と思っていたことから、彼を好きになったのだ。
その思いが少し薄れてきて、疑問を呈してくるようになると、武則を見る自分の目に一種異様な何かがあるような気がしてきた。
今度はそのことが静代の関心ごとになった。
――あの人は何を考えているのかしら?
見れば見るほど、武則に対して自分の考えていることが分からなくなってくる。その不思議な感覚が、またしても自分を武則に引き寄せることとになるのだった。
二人はまわりから見ても不思議なカップルだったに違いない。顔はニコニコして見つめあっているのに、その間に会話の一つもない。
「アイコンタクトで、見つめるだけで言葉はいらない」
という恋愛ドラマのセリフのようだが、実際の恋愛はそんなことはないだろう。
言葉にしなければ伝わらないことが多く、言葉にしないと相手が何を考えているか分からない。
贔屓目に見て唇が動いているのであれば、「読唇術」なるものもあるので、相手に伝わるかも知れないが、それも耳の不自由な障害者に対して言えることであって、健常者では口があるのだから、それを使わない手はないというものだ。
逆にそれを使わないというのは、障害者に対しても失礼であり、
「せっかく目も口もあるんだから、いえばいいじゃない」
と思うに違いない。
そんな二人が、いつの間にか相思相愛で離れることができなくなり、結婚するまでにそれほど時間が掛からなかった。
「善は急げ」
ということで、先導したのは武則だった。
そんな武則に対して無言でついて行った静代だが、それまでに言葉でのコミュニケーションはしっかりと行われていて、障害らしいことは一つもなかった。
「二人は本当に円満な結婚だったな」
とまわりからは結婚から何年も経ってから言われることもあった。
おしどり夫婦とまでいくかどうか分からないが、この結婚を失敗だったと思うことは二人の間になかったことは間違いなかった。
子供が授かるまでには、それほど時間が掛かったわけではなかった。いわゆる、
「できちゃった婚」
ではなかったが、結婚してすぐくらいにできた子だったので、目聡い人には、
「できちゃった婚ではないか?」
などと陰口をたたく人もいた。
だが、武則も静代も、別に気にならなかった。
気にする人というのは、結局自分たちを意識している人なので、自分たちのことを暖かく見守ってくれている人か、あるいは幸せな結婚に少なからずの嫉妬心を抱いている人かのどちらかだろうと思っていたからだ。
静代の方は、ほぼ前者だと思っていたが、武則の方は、自分たちに嫉妬心を抱いている人も少なくないと思っていたので、それはそれで気分のいいものだった。
自分が嫉妬心を抱く立場になれば、いたたまれないかも知れないが、嫉妬心を抱かれるのは、案外と嬉しいものだった。