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自殺と症候群

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 実際に他の出演者の表情を見ていると、完全に白けていた。言っている本人は、次第に饒舌になってきて、誰も止めることをしなかったので、どこまで突っ走るか分からないところまで来ていたが、メインキャスターが我に返ったのか、
「すみません、お話の途中ですが、コマーシャルです」
 と言って、スタジオ内に用意されたスポンサーによる宣伝スポットが写しだされた。
 当時からよくある宣伝方法であった。
 コマーシャルが終わると、もう自殺菌の話は誰もしなくなった。最初に自殺菌を口にした人は黙り込んでしまって、最後まで何も語ろうとしなかったのは特徴的だったが、それも自殺菌という言葉を意識した人にしか感じることではなかったに違いない。
 武則はそれを聞いて、
――自殺何て、つまらないもの――
 と思うようになった。
 彼が自殺を思いとどまったとすれば、それが理由となるだろう。
 かくして、武則は運がよかったしかいいようがなかった。自殺を本当に試みたかどうか、今となっては分からないが、少なくとも思いとどまれたのは、自殺菌という言葉のおかげだった。
 そのおかげでいい人に出会うことができ、その後も持ち前の真面目な性格が幸いして、仕事も順調に行き、その後の結婚から家庭を持つなどの、
「一般的な幸せ」
 を手に入れることができたのだ。
 そんな人が他にいたとは思えないが、本当に自殺菌という言葉はその時だけのものであり、誰も知らないというのが事実だろう。それがまた話題になったのは、
「時代は繰り返す」
 という言葉が証明しているのかも知れない。
 自殺菌という言葉がささやかれたのはそれから数十年後のことであり、意外なところから自殺菌について言及されることとなった。
 先ほど、自殺についての「ウンチク」を書いてきたが、その話題に対しては、景気が落ち着き、自殺が社会問題ではなくなってからも、研究され続けてきた。
 それは研究材料としてだけのことだったのかも知れないが、一時代の社会問題であったという事実に変わりはない。それだけにこの問題に終わりはないと言えるのではないだろうか。
 武則は本当に自殺を考えていた。実際に意識として自分がこの世にいないという想像をしたこともあったし、一人寂しく死んでいくという妄想を抱くことができた。
――こんな気持ちになるなど、人生のうちでそんなにあることではない――
 と思っただけに、近い将来、自殺をするものだと思っていた。
 自殺については完全に他人事の発想だった。
――自分のことだと思ってしまうと、きっと自分で自分の命を断つなどできるはずもない――
 と思ったからだ。
 他人事のように思うことで自分が死を選んだとしても、それは正当化される気がした。そのために武則は、
「自殺菌」
 なる架空の発想ででっち上げて、自殺という出来事の背中を押したものを正当化しようという考えだ。
 だが不思議なもので、自殺菌というものを創造してしまったことで、今度は自分の中で躊躇いが生まれてきた。
 一種の正義感に近いものであるが、それは自殺菌なとの悪玉と対決するという構図だった。まるでゲームか何かのようで不謹慎ではあるが、考えてみれば自殺を他人事として考えようとしてしまったことが招いた自殺意識。ゲーム感覚で何が悪いというのか。武則は自殺菌を考えてしまった自分に対して自嘲してしまった。
――何てバカバカしい発想をしてしまったのだろう?
 と思うと、それまで何とか正当性を与えることでしようとしていた自殺が、急につまらないものに思えてきた。
 本当は怖かったというのが事実なのかも知れない。恐怖心を感じたことで、せっかく正当性を主張するために創造した自殺菌なるものを抹殺しようとしているのだ。それはきっと自殺菌への創造というのが、
――恐怖心を和らげるための苦肉の策――
 だったと考えると、さらに辻褄が合ってくる。
 いったんつまらないと思うと、今度は自殺をする勇気が失せてしまった。生きていく勇気が生まれたわけではない。正直、死ぬのが怖くなったのだ。
――これほど人間臭いものはない――
 と思ったが、自殺をするのも人間、結局最後は人間なのだ。
 自殺を思いとどまった武則がそれから別に何かの強い意志を持ったわけでもなく、生きていくことの意義を見つけたわけでもない。
 実際にそんな意義を探していたわけでもない。どちらかというと、流れに身を任せていただけだ。それなのに、何とか生きてこれたのは、
――人間なんて、しょせん余計なことを考えなくても生きていける――
 という思いを持ったからなのかも知れない。
 それまでの武則は絶えず自分のやることなすことに何かの理由をつけて、正当化しなければ気が済まなかったような気がする。そんな自分が何も考えないように生きていくなどできるはずもないと思ったが、一度自殺を考えたことで、何とかなることができたようだった。
「死んだ気になれば何でもできる」
 と、自殺志願者によく言われる言葉である。
 武則は、
――そんなのただの気休めだ――
 と思っていた。
 実際に今もそう思っている。自殺をする人間にいい悪いと言える立場ではない。もしそれを言える立場の人がいるとすれば、実際に自殺した人だ。それは未遂では成立しない。実際に死なないと分からないことだ。つまりは、生きている人間には資格はないということになり、
「実際には不可能である」
 という結論に至ることだろう。
 死ぬということはいろいろな葛藤がそこには存在するだろう。それが自然死であっても、寿命であっても、自殺であっても事故であってもである。
「気がついたら死んでいた」
 という笑えない言葉もあるが、これも一つの真理と言えるのではないだろうか。
 そこに未練があってもなくても、死というのはあっという間に訪れる。いくら一瞬で即死だったとしても、苦しんで死を迎えたとしても、命が断つ瞬間というのは、まったくの平等に一瞬なのである。
 人はその瞬間をいかに迎えるべきかを考え、宗教に走ったり、一生懸命に生きようとする。それが本当に死を直視していることになるのかは分からないが、自殺菌を意識してしまった武則は、他の人にはない自分だけ、
――死の世界を覗いてしまったのではないか――
 と思うようになった。
 市の世界をこれからまた想像することもあるかも知れないが、少なくとも当分の間はないと思っていた。やはり、
「一度死を意識した人は、死についてあまり考えたくない」
 と思うものなのではないだろうか……。

                  カプグラ症候群

 武則はそれから少しして結婚した。相手は中学時代の友達で、武則が自殺を考えている時に再会した相手だった。
 その頃は、ある程度まで自殺を思い描いていたので、知り合ったその女性に対してあまり関心を持っていなかったが、彼女の方ではそんな武則から、
「愛されている」
 と思っていたようだ。
 武則は、
――俺はどうせ死ぬんだから、適当に付き合っていればいいや――
 くらいにしか思っていなかったかも知れない。
作品名:自殺と症候群 作家名:森本晃次