短編集77(過去作品)
真実
真実
最近、あまり考え事をしなくなったからだろうか。毎日があっという間に過ぎていくような気がする。別に充実感に満ち溢れているわけでもなく、忙しくて考える暇がないわけでもない。
それなりに充実した毎日を過ごしているつもりだった。仕事を終えてからの疲れは心地よいものであるし、睡眠も十分に摂っている。家にいる時のプライベートな時間には本を読んだりするのを日課にしていて、満足しているはずであった。
満足感が次第に薄れてくるのは、生活にマンネリを感じてきたのもあるかも知れない。いくら充実していても、来る日も来る日も同じことの繰り返しでは、さすがにマンネリだと思っても仕方がない。
毎日をどう過ごせばいいかなど考えたこともないので、漠然とした過ごし方しか浮かんでこない。それほど几帳面な性格でもなかった。
柴田勝也はそんな毎日に疑問を感じていた。その疑問が自分の中のどこから来るものなのかなど分かってはいなかったが、自分の中にも何かハッキリしない靄のようなものが存在していることは分かっていた。
だからこそ、考え事をしなくなったことが気に掛かる。元々、時間があれば無意識に何かを考えている方だった。それは自分の将来であったり、漠然とした恋愛へのイメージであったり、それは自分にとっていいこともあれば悪いこともあった。その時の精神状態によって考えることも違ったのだろう。
「お前と話していると、時々理屈っぽくなるからな。しかも話が白熱してくると、すぐに頭に血が昇るようだ」
学生時代に親しかった友達に言われた。
「そうかな? 話に夢中になると、知らず知らずに声が大きくなっているからな。怒りっぽくなるんだろう?」
「俺だけじゃないんだな、そんな風に考えているのは」
「気がついたら、激論を闘わせているような気分になってしまっているらしい」
考え事をしている時の自分を思い浮かべたことはあまりない。さぞかし難しい顔をしているのだと思っていたが、
「君が考え事をしている時って、本当に無表情なんだね? 何を考えているか分からない顔って、ああいう顔のことを言うんじゃないだろうか」
やはり同じ友達に言われた。
彼とは今でもたまに連絡を取り合っているが、働き始めてからお互いに時間が取れなくなり、自然に疎遠になってきた。就職した時から分かってはいたが、時々一抹の寂しさを感じてしまう。
働き始めてからの柴田は、時間があれば考え事をしていた。
就職するということは大学生活とはまるで違う世界に飛び込むことであり、その不安は言葉で言い表せないものであった。
考え事の数だけ、不安がある。
柴田がそう感じ始めたのは、就職してからである。不安をかき消そうとするから考え事をする。しかし言い知れぬ不安というのは、漠然としているからこそ言い知れぬものであり、それを一つ一つ解消しようと考えれば、どうしても果てしないものに思えてきて仕方がない。
その考え事をしなくなったのだ。
マンネリと思えても仕方ないが、自分なりに生活に諦めを感じているのではないかと思うのが怖いのだ。悟りのようなものを感じるわけでもない。ただ考え事をしているというよりも、ふっと我に返ると、何も考えていなかった自分に気付くのだ。ひょっとすると何かを考えていたのかも知れない。だが、それを覚えておらず、しかも意識していない以上、何も考えていないというのと同じことなのだ。
最近寝ていて身体の節々にだるさを感じることがある。腰や首筋など、まるで寝違えたような感覚だ。きちっと仰向けで寝たそのままの姿で目を覚ます。別に布団が乱れているわけでもないのにである。寝違えているわけではないのは間違いない。
夢を見ているように思うのだが、起きてから思い出せないことも多い。学生時代など夢を見たという感覚があれば、見た内容の少しでも覚えているものであるが、今見る夢にはそれがない。
間違いなく見ているという意識はある。忘れていってることが分かっているので、必死に忘れないようにと意識するのだが、忘れないようにしようと思えば思うほど、意識の外を空回りしているようだ。
「指の間からスルリと抜けられているような気がする」
という独り言を、目が覚めて思わず口ずさんでしまうほどだ。
夢というのは忘れていくものだろうか?
意識の中に封印されていると考えたことがあるのは、夢を見てから、
「前にも同じような夢を見たことがあるんだが、思い出せない」
と思うことがあるからである。
夢を見ることが多いのは疲れているからだと思った柴田は、仕事が一段落したのをいい機会にして旅行に出かけようと考えていた。
学生時代にはそれこそよく出かけたものだ。
――旅に出ると違う自分が発見できる――
と感じたからだ。実際に旅行に出ると、それまで内気で人と話す時でも話題性に欠けているところがあるにもかかわらず、饒舌になってしまう。開放感がこれほど自分にあるものかと不思議に思うくらいだった。
電車の旅はいつしても楽しいものだ。目の前を流れていく景色が、いくら単調であろうとも、どこかに違いを探そうとしている自分に気付く。どこが違うのか分からないが、確かにどこかが違うのだ。
近くを走り去る田園風景に比べ、遠くの方に見える山はほとんど位置を変えることがない。目の前から果てしなく続いている道は、遠くに見える山に繋がっているのだろう。
しばらくすると同じような道が見えてくる。その道も山に繋がっている。
「すべての道が山に繋がっているんだな」
と頷いてみるが、名前も知らないそれほど高くない山をじっと見ていると、沈みかけている太陽が、山の谷間から顔を出している。さっき通り過ぎていった道を照らしていることだろう。
柴田は鈍行の旅が好きだった。特急電車に乗っていると、それこそ出張に出かけたみたいで、仕事を嫌でも思い出してしまう。
田舎を走っていて、いくら夕方であっても、ほとんど乗客もいない。学生が隣の車両で我が物顔で叫んでいるのか、大きな笑い声が聞こえる。都会の電車ではなかなか考えられないことだ。
柴田の乗った車両にはほとんど人がいなかった。端の方に一人女性が窓の外を見ているだけである。あまりジロジロ見るのも失礼に当たる、気にはなったが、あまり振り向かないでいた。
この路線の温泉は観光ブックなどのメディアで宣伝されたところではない。だが、マニアの間ではいい湯だという話であり、一度訪れてみたいと思っていた。
効能に関しても、成人病、リュウマチ、冷え性などさまざまあり、隠れた秘湯としてその筋では有名なところである。家族連れやサークルなどの団体客が訪れないことから、アベックだったり、あるいは、男女の怪しげな甘い秘密を含んでいることも多いようだ。
旅館の人もそのあたりは心得ているようで、あまり客を詮索しないようにしているようだ。静かに過ごすにはもってこいである。
電車に乗っている時間は大体三時間ほどだろうか。最初の三十分も乗っていれば、あっという間に車窓は田園風景へと変わるようなローカル線である。遠くに見えていた山が山脈を形成していて、その一つに向って走っているのだ。
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次