短編集77(過去作品)
だが、本能と思い込んでいるものにも限界があるだろう。夢を見ているからといって、できないと思っていることは、いくら夢の中でもできるものではない。
夢を見ている時は、自分で夢の中にいるという意識があるものだ。
空を飛ぶ夢、自殺を企てるような夢のように現実の世界ではありえないと思っていることはやはり夢の世界でもできないのだ。
空を飛ぶという夢は、人間というもの自体、そして自殺を企てるという夢は、自分という人間にとって、およそ不可能なことだという思いである。
夢から覚めるにしたがって忘れていくのが夢であるが、できなかった夢は結構覚えているものである。潜在意識の限界とでも言うべきだろうか。それとも、何か特徴のあることを覚えていて、肝心なところを思い出せないだけなのだろうか。どちらにしても印象的な夢である。
夢から覚める瞬間に必ず、
――できるわけない――
と思っているに違いない。夢から覚める瞬間は必ず自分にとっての恐怖で目が覚めるからだ。だからこそ夢が印象深く残っているもので、忘れられない何かを記憶に落とし込んでいる。
――本当に最後まで夢を見ていないのだろうか?
目が覚めた瞬間にいつも考える。確かにいつも同じようなところで目が覚めるが、自分の意識していないところは夢でも見ることができないと感じているからなのだろうか。ひょっとして夢を最後まで見ているのだが、思い出そうとしても、肝心なところは、
――夢だったんだ――
と、心の中で納得するためにわざと封印しているのではないかとも思えてならない。夢が本当に潜在意識の外で見ることのできないものであるなら、想像力というものがどこで培われるか疑問に感じてしまう。
人間は持っている力の一割も出していないというが、夢の世界で一割を超える力を引き出すことができない限り、現実でも引き出すことができないように思っている。
今回の自分には何かの可能性を感じるのだ。
最近、言い知れぬ不安に苛まれているのだが、その原因がハッキリとしない。その不安が何であるか分からないことが、さらなる不安を呼ぶ。漠然とした中で時間の経過を感じているが、たった今まで考えていたことが、あっという間に過去になるという事実を、ただ漠然と考えている自分を感じたりもする。夢の中の自分がもう一人の自分であるという自覚は、夢を見ている自分がいることから感じることができるが、それも目が覚めてからしか感じることができないのである。
夢での患者はいつも女性である。
最初は自分にとって見覚えのある顔だと思うのだが、すぐに思い出せそうもなかった。最初に思い出せないはずだということを感じたのである。
最近の湯川は非常に忘れっぽくなっている。それは会社に入ってから感じていたことだが、一生懸命にすればするほど、覚えていないことが多いのだ。
夢で医者になった自分のところへやってきた患者、彼が同じようなことを相談しているようだ。きっと医者になった自分がまわりの目を気にしているからなのかも知れないが、患者がまるで現実世界の自分を見ている。夢の中で主人公である医者になった自分は、実に冷静に見えている。
――本当に自分なのだろうか――
と思うほどで、最近特に感じている、
――言い知れぬ不安――
というものを解決してくれそうで、頼もしく感じている。ひょっとして医者になった自分の夢を見ることを待ちわびている自分がいるのではなかろうか。
「先生、私最近本当に忘れっぽくて悩んでいますの。さっきまで考えていたことがもうすでに分からなくなっていたりするんですよ」
黙って聞いていた医者がゆっくりと目を開けて、患者である女性を見つめている。じっと見つめているが、決して相手に不安を与えるようなそんな表情ではない。あくまで落ち着いてはいるが余裕のある表情は、相手に決して不安を与えることはないのだ。
「あなたの集中力はきっと素晴らしいものがあるんでしょうね。それがある意味災いしているんではないでしょうか」
相手のことを考えてか、オブラートに包んだように一言一言を考えて話している。そう感じるのは、夢を見ているもう一人の自分には何が言いたいか分かっているからだ。
「それはどういうことでしょう?」
患者はいまいち分かっていないようで、確認を求めている。
「長所と短所は紙一重、だからこそ、自分の短所ばかりを気にしている人は案外、長所を分かっていなかったり、長所ばかりを見る人が自分の短所に気付かなかったりするものなんですよ」
さらにオブラートが掛かる。
「だから躁鬱症にかかりやすいと?」
女性も医者の考え方が分かってきたようだ。夢を見ているもう一人の自分には、患者がどう考えているか、手に取るように分かってしまいそうな錯覚を感じていた。
「そうです、その通りです。だから、きっとあなたは短所ばかりを見つめている時に忘れっぽくなってしまうんでしょうね。嫌なことを忘れたいと日頃から思い込んでいませんか?」
「それはあります。一つ不安なことがあれば、小さなことでも、そこから不安の種が果てしなく大きくなりそうで、気がつけば鬱状態に陥ってしまいそうになるのです」
「鬱状態に陥る時が、自分で分かるのでしょう?」
「ええ、そうなんです。好事魔多しというではないですか、いいことが続いた後に急に言い知れぬ不安に襲われることがあるんです。それが鬱状態の入り口だったりするんです」
普段の湯川にも言えることだった。言い知れぬ不安の元はどこから来るか分からない。だからこそ「言い知れぬ不安」なのだが、やってくる不安がそのまま鬱状態への入り口であることは最初から分かっているのだ。
「あまり一つのことに集中しすぎてまわりが見えなくなるのでしょう。それが、集中力に長けているというあなたの長所のすぐ裏側にある短所なのです」
「目からウロコが落ちるとはこのことかも知れませんね。私はきっとそのことに気付いていたような気がします。でも、それを信頼できる相手に言ってもらいたかった。私のまわりには言われて安心できる相手がいなかったんですよ。だから思い切ってこちらに参ったのですが、正解でしたわ」
顔色が心なしか精気を帯びてきたように思える。最初から顔色が悪いことに気付いていなかったが、表情に余裕が見られると顔色がよくなってくるのが分かってくる。きっとそれも夢の中だからであろう。夢の中で色というものを意識することがないからである。
しかしそれでも顔色がよくなってくるのを感じるのは、患者の顔に何かしらの記憶が残っているからだろう。
――どこかで会ったことがあるような気がする――
それはいつも見ている夢の中以外でである。実に不思議な感覚だ。
次第に余裕の現われた患者の顔を見ながら医者は自分が夢を見ていることに気付く。自分が医者でないとが分かってくるのだろうか、一気に現実に引き戻されるような気がしてくるのだ。
相手の顔が記憶の奥深くに封印されるような気がするが、元々顔覚えの悪い湯川である。後から思い出すことなどないだろう。
患者の女性はもう一つ気になることを言っていたのを覚えている。
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次