短編集77(過去作品)
と言われたことがあり、それが嬉しくてたまらなかったが、別れてから考えてみると、その言葉が一番信憑性を疑った。
――大切な人ってどういうことだろう――
一番曖昧な言葉ではないだろうか?
よく中学生くらいの純愛で別れる時の決まり文句に、
「お友達でいましょう」
という言葉をよく聞く。
――お友達?
これも曖昧な言葉である。別れるための文句としては、一番差し障りのない言葉に感じるが、言われた方はそれこそ訳が分からない。
――それまでずっと恋人だと思ってきていきなり友達?
そんなバカなことがあるものか。
「友達以上に思えないの」
と言われて、
「じゃあ、友達からもう一度始めよう」
と答えた男に対し、女性が言葉を失ったという話も聞いた。曖昧な言葉などいくらでもあるというものだ。
梅雨の時期に、朝霧をよく見かけた。まるで曖昧な気持ちになった自分を表わしているかのような霧を見ていると、どうしても早く歩く気がしなくなる。
起きてすぐなのに、またすぐに眠くなる。身体に纏わりついてくる湿気が睡魔を誘うのだ。それも、真理子の匂いを感じながら……。
就職活動は、後から考えれば楽な方だったのかも知れない。一発での合格というわけではなかったが、それほどランクを下げることなく就職できたのは、幸いだっただろう。一応大学閥があり、入社枠がある中での合格だったので、就職してからもそれほど立場的に苦しいものではないに違いない。
その予想は当たっていた。孤立することはなかった。上司や先輩社員に同じ大学卒の方がおられてそれなりに安心感が得られる。しかし湯川は同じ大学出身というだけの理由でつるむようなことはしたくなかった。同期入社の中にはいつも一緒にいるやつらがいて、いかにも同じ大学出身だということを知らない人にも宣伝しているようで、あまり近寄りたくない。
「やつらは大学閥という枠の中の温室にいるんだ」
などと思われるのを嫌ったからだ。あくまでも実力で入社したのであって、コネだけの力ではないと思いたい。
湯川は一匹狼だった。
そんな湯川から見れば、同じ大学からやってきてつるんでいる連中を見るのは、あまり気持ちよくない。まるで大学の延長で、学生気分が抜けていないことを自らが宣伝しているようなものだ。
――そんな風には思われたくない――
というのが本心なのだ。
そんな湯川が最近よく見る夢、それが医者になった夢である。
高校時代に医者になりたいと思い結局断念、大学に入ると挿絵を書くことを見込まれ、それなりに芸術の素晴らしさを知った。そして、入った会社が中堅の商社。珍しいことではないのだろうが、それにしてもコロコロ変わったものだと思う湯川だった。
医者になった夢を見たんだと思うのは、起きてすぐなのだが、たった今まで見ていたはずなのに、すぐには内容を思い出せない。目が覚めていくにしたがって忘れていくからではないだろうか。
目が覚めていく間に感じるのは、鼻が詰まっているのではないかという思いである。その思いは病院独特の匂いを夢の中で感じているからなのかも知れない。
だが、夢の中で匂いというものを感じるものだろうか?
考えてみれば夢の中で匂いはおろか、色や大きさなどハッキリと覚えているものは何一つないではないか。きっと目が覚めていくうちに忘れていくものであって、現実の世界と一緒に考えてはいけないものに違いない。
夢の中で湯川がなっている医者は何なのだろう?
自分でも分からない。だが、色を確認できていないので、血を見ていたとしても、それが真っ赤であったかどうか分からない。いや、むしろ真っ赤でない方がきつい印象として頭に残るかも知れない。生まれてからずっとカラーテレビを見て育ったので、見たものそのままの色がハッキリと瞼に残るのが当たり前となっている。しかし、モノクロの映像をテレビの特番などで見ると新鮮に感じられる。
きっと想像力のようなものが浮かんでくるからだろう。真っ赤な血が噴出している様子よりも、どす黒い色の血が噴出している方が、却ってリアルに感じられ、血の匂いを想像している自分に気付く。
――鉄分を含んだ匂い――
これが血の匂いのイメージだ。病院で感じる薬品の匂いとはかなり違うが、病院を思い浮かべて感じる匂いの一つとして、血の匂いも混じっているように思う。
――私は外科になりたかったのかな――
病院といえば外科のイメージだった。だが、本当になりたかった医者は違っていた。カウンセリングでもしているイメージが頭に浮かんでくる。ひょっとして神経科の先生をイメージしているのではないかと、夢の中でも感じていたように思う。
まわりの環境は外科や内科、しかし頭で思い浮かんでいるのは神経科である。
夢の中にいる主人公の自分を、それを見ているもう一人の自分・主人公として見ている時の自分がまわりに感じるのは外科や内科の雰囲気であって、それを見ている自分が夢の中に感じている主人公は、神経科の医者なのだ。
白衣を身にまとっている姿は、夢とはいえ実に凛々しく感じる。
――どうして医者を諦めたんだろう――
今の生活を決して悔やんでいるわけではない。だが、医者になった夢を見て、その夢から完全に覚めるまでの夢と現実の挟間にいる自分、その時に一番強く感じていることなのだ。
夢とは儚いものだということを思い知らされたのも、匂いからだったように思う。
夢の中で匂いを感じる。感じるはずのない匂いだと思えば思うほど、起きてから夢のことを思い出すと、
――匂いを覚えていれば、夢だって覚えていられるんだ――
と考えてしまう。
匂いというのは、その時にならないとハッキリと思い出せないものである。いくら嗅覚が優れていても、それがそのまま記憶に繋がるわけではない。きっと記憶と嗅覚とは違うところにあるのであって、ただ、同じ匂いを嗅ぐことで記憶してある扉を開きやすくするのは間違いなさそうだ。
舌で感じる味覚というのは、甘いもの、辛いもの酸っぱいものと、感じるところがそれぞれ違っている。それぞれの味を記憶していて、それがどこで感じるものかを本能で嗅ぎ分けているとも言えないだろうか。嗅覚だって同じように、記憶する場所が違っていて、その都度頭に記憶してある引き出しを刺激して、その時に感じたものを思い起こさせるのかも知れない。
そんな曖昧な感覚である嗅覚、寝ている時にしか見ることのできない夢と同じで儚いものなのではないだろうか?
医者になる夢はそれぞれでシチュエーションが違っている。
医者になった自分をまわりがどう見ているかなどという夢を見ることもある。そんな時は自分がまわりのことを普段から気にしている時で、怯えというものが心の奥底に潜んでいるようだ。
言い知れぬ不安に襲われるような夢を見ることは今までにもあったことだ。
――不安に感じるから夢として見るんだ――
と思ったもので、不安に感じることはあまり考えたくないという本能の逆なのかも知れない。夢はそれだけ理性の効かない本能の赴くままの世界だと思ったこともあった。
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次