短編集77(過去作品)
身体の動きもしなやかで、暗闇の中で蠢くその姿は、実に捉えどころがなかった。
服を脱ぐまでの時間が抱いていた時間よりもはるかに掛かったように感じたのは、それだけ、自分が真理子の身体を堪能したかったと思ったからだろうか?
いや、今から思えば真理子を抱いている間が夢にまで見た瞬間だったわりに、意外とあっさりしていたからかも知れない。
――こんなものなのか?
欲望を放出したあとに襲ってきた虚脱感、それが最後を支配する。虚脱感を感じるからこそ、それまでの時間が長かったと感じるのではなかろうか。真理子が湯川をどう感じたか、それも気にはなったが、とりあえず自分にとっての初体験、いい意味で思い出になることは間違いなかった。
虚脱感が違和感へと変わり、誰か知っているはずの女性の顔が一瞬目の前に浮かんだ気がした。それを一瞬にして消したのが、見上げていた天井の模様である。
最初が自分の部屋だったということで、寝る時に見つめる部屋の天井、それまでとは違った印象に見えた。
――これほど天井って遠かったんだ――
今さらながらに感じた。寝室は和室形式になっているので、天井は木目調の模様となっている。その模様が遠くに感じるのだ。
だが、じっと見ていると迫ってくるようにも見えて、実に変な感覚だ。落ちてくるというイメージを感じた時、思わずよけてしまっている自分がいて、身体がそのまま金縛りにあってしまう。しかし、それも一瞬だったのだろうか、そのまま眠りについているようだ。気がつけば汗をびっしょり掻いて寝ていたのだった。
これこそ目の錯覚である。目の錯覚が招いたものは自分の部屋の天井ばかりではなかった。道を歩いていても、電車に乗っていても、会社で仕事をしていても感じる。
角度や日の当たり方によって遠近感を感じなくなる時がある。
――匂いだ――
そんな時にいつも感じる。何か匂いを感じた時に目に錯覚が訪れる。
例えば自分の部屋にいる時の錯覚、それは、初めてこの部屋で真理子を抱いた時に感じた真理子の匂いだった。甘い香水を振り掛けていたのか、それに汗の匂いが微妙に絡み合って独特の芳香を漂わせている。それを感じた時に、目の錯覚が起こるようだ。
表を歩いている時には違う匂いである。シンナーの匂いのようだったり、雨が降りそうな時に感じる埃のような匂いだったり、さまざまだ。
――どうしてこんな場所に?
と感じることもある。
事務所で、雨が降りそうな時の埃の匂いを感じることができるはずもないのに、なぜか感じてしまう。不思議だった。ケガをした瞬間に、まるで石のような匂いを嗅いだ記憶があるが、そんな匂いまでしてくる時がある。呼吸困難に陥った時に感じるのだと思っていたが、別にケガをしているわけでもないのに、きっと何かの記憶がよみがえろうとしているのかも知れない。
真理子とは二年ほど付き合ったが、別れるまでは早かったように思う。
別れる時、不思議と湯川にショックはなかった。どちらかというと真理子の方がショックだったのではないだろうか。ある意味湯川の方が冷めていたのかも知れない。あれだけ真理子なしでは生きられないとまで感じていた自分がウソのようだ。
別に他に好きな人ができたわけではない。もっとも、真理子を好きでいた間も、素敵な女性に目が行っていたりしていた。しかし、他の人を見てしまうことへの罪悪感から、
――真理子に対して悪い――
という感情が生まれるわけではない。どちらかというと、自分自身の中で許せない部分が現われるのだ。
――相手がどうのこうの言う前に自分なんだ――
と感じる瞬間でもある。
湯川自身の考え方が、
「自分中心の考え方なんだ」
ということを人に話したこともあるが、
「誰だって大なり小なりそうさ。深く考えることではない」
とあっさり言ってのけられた。
人との出会いを運命と考えるならば、別れも運命だ。くっついたり別れたり、それが人生だと教えてくれるやつもいる。
その友達は出会いも多ければ別れも多いと豪語するが、自慢しているつもりなのだろうか。湯川にしてみれば、
「そんなに出会いや別れが多ければ、一つの出会いに対しての感覚が麻痺してしまうのではないか」
と言いたくなってくる。
別れたのは梅雨の時期だった。それまでの五月晴れがウソのようにジメジメしていて、気温がそれほど高くないのに、不快指数は最高潮だ。朝から湿った空気が肌に絡み付くようで、少し歩いただけでも汗が噴出してくる。
そんな日は今でも真理子のことを思い出す。真理子の顔を思い出すというわけではないのだが、甘い匂いを思い出すと言った方がいいだろう。
甘い香りがいつもしていたように思う、それは真理子を抱く時だけではなく、普通に腕を組んで歩いている時でも、喫茶店で正対している時でも香ってきた。
抱きたいと思う時は甘い香りに誘われたからだろう。
しかし不思議なことに、最初に抱いた時の甘い香りと、それからの甘さでは微妙に違う。どこがどう違うかと言われればハッキリと口にできるものではないし、もう一度あの香りがしたとしても、本当にあの時の香りだと分かるかも疑問である。
香りというのは実に不思議なものである。人を迷わすこともあれば、そのくせ、ハッキリとしないところがある。匂いを嗅げば分かるように思うのだが、人を好きになるというのも、案外香りを感じているからではないだろうか。
視覚、嗅覚、聴覚、それぞれが男を迷わせる。
豊満なボディに、悩ましい声、さらには香水の甘い香りと揃えば、女性を思い出すのだ。逆にいえば、それが揃わないとハッキリと思い出せないともいえる。だから、顔を思い出すことができないのだろう。
香りの微妙な違いに気付いたのは、真理子の顔を思い出せなくなってからだ。
――どうして思い出せないのだろう――
と考えれば考えるほど、甘い香りが漂っているようで、それがただ甘いだけにしか思えないのだ。
梅雨の時期になると、その甘い匂いを感じる。ただ甘いだけではない、何か酸っぱさを含んだ匂いのようだ。
――女体の匂い――
と感じたのは、それからあとに付き合った女性とベッドをともにした時だった。
それも偶然が重なっての梅雨の時期、どうやら湯川は梅雨の時期になると、女性を意識し始めるようだ。というよりも女性が湯川を意識するのか、女性と知り合うことが多くなるのだ。
大学時代はアルバイトで知り合うことが多かった。真理子と別れてしばらくは自暴自棄のようになり、なかなか女性と知り合いたいと思いながらも、知り合うことができなかった。
きっと真理子の影を追いかけていたのだろう。
知り合った女性と一度デートしたりすることはあっても、それ以上の進展はない。相手も真理子の影を追いかける湯川の影のようなものが見えるのか、最初から一線を引いているように思えてくる。それは後になってから感じることなのだが、それに気付かないほど、知り合ってから頭の中が混乱しているのかも知れない。
真理子にとっての湯川が一体何だったのかということを考えることがある。
「あなたは私にとって、とても大切な人」
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次