短編集77(過去作品)
暗い部屋に明かりがポツリとついている。その向こうに見える大きな影が揺れている。ついている明かりはまるでろうそくの炎のように影を大きく揺らしている。先ほどの電車の中で見た大きな影を思い起こさせるではないか。背筋が寒くなるのも当然かも知れない。
「いい湯だったわ」
そう言って、真実が手ぬぐいで首筋を拭きながら歩いてくるのが見えた。浴衣の胸がはだけ、濡れたうなじが色っぽい。先ほどまでの電車の中での雰囲気とはまるで別人のようだ。
湯から出た真実の表情もどこかで見たことがあるような気がした。
――そうだ、この甘えたいような雰囲気、あの時の風俗嬢に感じた思いだ――
シャンプーのいい匂いがする。肩まで伸びている長い髪が風に心地よく靡いている。サラリと乾いているようだ。うなじが濡れているのは、汗を掻いているからに違いない。
柴田がノートを見ているのを見て、
「あら、珍しいものがあるわね」
そう言って、柴田が見ていたうちの一冊を手に取った。
やはり同じところに目が行ったのだろう、目を見張っている。その形相たるや、もはやお湯に浸かってリラックスした雰囲気とは程遠いものだった。何かを思い詰めているような表情。そんな表情を先ほどまで自分もしていたのかと感じる柴田だった。
だが、匂いだけは漂っている。甘えたくなるような雰囲気を残したまま、形相だけが凄まじいものになっているのだ。実におかしな気分である。
最近深く考えない自分がウソのように、今の状況の自分を見つめている。
――思いつめたくないので、考えないようにしていると思っているだけではないだろうか――
考えていないつもりでも考えている。考えるということの感覚が麻痺していると思えなくもない。それは彼女の形相を見て、自分も同じような表情をしていたと考えることで感じたことだ。
「お前はすぐに顔に出るからな」
学生時代によく言われたものだ。声も大きくなり、感情を隠しきれなくなるのだ。よく言えば正直とも言えなくはないが、少なくとも損をする性格ではあるだろう。そんな感情を押し殺そうとしていて、知らず知らずのうちにあまり深く考えないようになっていた。
真実を見ていて、そんな自分が分かってきたのだ。だが、今日ここでノートを見て、忘れていた何かを思い出したように思う。自分が深く考えなくなった本当の理由がここに来ることで分かったような気がする。
柴田には好きな女性がいた。それまでに感じていた自分に対する思いを根底から覆してくれそうなそんな女性である。知り合えただけで、自分にそれまでなかった女性に対する自信が生まれたくらいに、彼女は柴田にとってなくてはならない存在である。その彼女が他に男を作ったのだ。
その事実を知った柴田のショックたるや、思い出すだけでも震えが止まらないだろう。柴田はてっきり彼女が相手の男に入れあげて、自分のことは遊びなのだと思いこんでしまった。初めてデートした時や、抱いた夜のことも、忘れてしまうほどのショックだったからだ。
柴田は自分で女性的なところがあると思っている。我慢できるところはギリギリまで我慢するが、一旦ある一線を越えると、そこから先は何があっても相手を許すことができない。それが思い切り顔に出るのだろう。
彼女は柴田の前から姿を消した。
男と駆け落ちのような感じで柴田の前から姿を消したのだ。
――私が悪いんじゃない――
そう思うことの代償として、柴田はあまり深く考えることをしなくなった。考えられなくなったのだ。それがいいことだとは決して思わない。だからこそ代償なのだ。
風俗嬢のことだけはなぜかハッキリと覚えているのだ。顔というよりもあくまで雰囲気なのだが、それが真実とダブッて感じるのは気のせいだろうか。私が慕っていたいと思う女性、それがあの時の風俗嬢と付き合っていた彼女だった。目の前にいる真実にそこまでは感じないが真実を見ていると付き合っていた彼女を思い出す。
付き合っていて別れた彼女はあれから自殺したと思えてならない。まったく消息がつかめないし、柴田以外に付き合っていた男の消息もつかめないらしい。心中をしたのではないかというのが、一番有力な説だった。
ノートを見ていて、どうしても彼女と付き合っていた男を思い出してしまう。自分がここに来たのも偶然ではないように思えるのは、真実と知り合ったからだ。このノートを発見し、思い出すまではすべて決まっていたことなのかも知れない。
――だがここからは――
運命に逆らってみたくなった。自分がどう行動するかを考えてみたくなったのだ。そう考えると自分の存在が信じられなくなるから不思議だ。
「あなたは、私を知っているのね?」
「ああ、知っている。きっと付き合っていたはずなんだ。だが君は私を覚えていないというのかい?」
「おぼろげに覚えています。でも、あなたのことはずっと忘れたことはありません。私は今のあなたに会いたかった」
「君は死んでいるのか?」
「それはご想像におまかせします。あなたは自分では気付いていないはずだけど、向こうの世界にもあなたがいるんですよ。私は向こうの世界であなたといつも一緒です。でも、今日はとても今のあなたに会いたかった。あなたに私を思い出してほしかったのね」
「君がここに誘ったのかい?」
「ええ、私は真実。しんじつと書いて真実……」
真実は私とここでノートを見るまでは、まるで柴田を知らない女性だった。それが芝居だったとはどうしても思えない。きっと、彼女も吸い寄せられるようにここにやってきて、柴田とこのノートを見ることでこの世の自分を思い出したのだろう。
空には無数の星が煌いている。柴田と真実はその中の一つでしかない。月を中心に見える夜の世界。その時だけお互いに存在しあえるのだ。太陽が出ている時は、存在していてもお互いを確認することなどできない。そんな状況を思い浮かべていた。
「ああ、時間が経つのは早いわ」
彼女との時間があっという間だった。東の空が白々としてくる。もう昨夜のような煌びやかな空を見ることなどできないのではないかと思う柴田だった……。
( 完 )
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次