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短編集77(過去作品)

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 それにしても、この宿に来るのは間違いなく初めてのはずである。にもかかわらず、以前にも来たような錯覚に陥ったが、それは庭を見て感じたことだった。
 立派な日本庭園が玄関から見えている。松の木が奥の方に堂々と植わっていて、中央には池が見えている。
「綺麗なお庭ですね」
「ええ、ここは露天風呂から見えるように設計されていますので、綺麗にしております。何しろまわりに何もないところですので、お庭には気を遣いました」
 照明も綺麗なコントラストを描いていて、綺麗に影ができているようだ。
「さっそく露天風呂に入ってみることにしましょう」
 部屋に入って、一通りの話を聞いた柴田は、浴衣に着替えると露天風呂へと向かった。真実も同様に浴衣に着替えて表に出てきたのがほとんど同じタイミングだったらしく、
「ちょうど一緒になりましたわね」
 柴田を見つけて、ホッとしたような顔になっていたが、電車の中の時より、心なしか寂しげで、少し気になった。
 露天風呂は混浴ではない。お互いにそれぞれの脱衣場に入り、湯に浸かるのだ。
「さすがに綺麗だ」
 宿の人に言われたように、ここから庭が一望できる。上から見下ろすような形になっていて、しかも照明は斜め上から当たっている。影が伸びているのがハッキリと分かり、クッキリと影が明るい中に浮かび上がっていた。
「まさにナイターが奏でる光の芸術だ」
 日本庭園でありながら、西洋屋敷の庭を思わせる。究極の光のアートを見たような気がした。
 そういえば、ここの情景をそのまま書いた小説を読んだような気がした。あれも確か温泉宿が舞台だったように記憶している。小説は確か旅行好きの主人公が旅先でいろいろな女性と出会い、その中で起こる気持ちや体の変化を徐実に表わしたような内容だった。
 小説というのは、願望を持っているが自分にはできないことが書かれていると、どうしても一気に読んでしまうものである。小説を読んだ時の柴田も、一気に読みきってしまったのを覚えている。
 一気に読んだからといって斜め読みをしたわけではない。情景が頭に浮かんできて、その通りにストーリー展開を思い浮かべる。小説のストーリーもちょうど今日のように、主人公が列車の中でたまたま同じ車両に乗り合わせた女性と知り合うところから始まっていた。
 男は別に悩みがあるわけではなかった。だが、自分を見つけるための旅を続けている。それが小説の主題でもあった。知り合った女性も悩みがあるわけではなさそうなのだが、どこか影があり、思わず過去を詮索してみたくなりそうな雰囲気を醸し出していた。
 二人はそのまま同じ宿の同じ部屋に泊まり、なるべくして身体を重ねることになる。その情景がこと細かに書かれていて、想像するだけで、身体が反応してくるのを感じたものだ。
「まるで夢を見ているようだ」
「私はあなたが現われるのをジッと待っていたような気がします。どうかタップリ愛してください」
 このセリフをハッキリと覚えている。真実に同じセリフをイメージしてしまったのは、シチュエーションが本の内容と似ていたからだろうか?
 本の内容はそこから先を覚えていない。真実と知り合って、以前から知り合いだったような気がしたのは、本の内容を思い出したからかも知れない。
 温泉に浸かっていると、湯気が満天の空に消えていく。じっと見ていると、一番大きく明るく光っている月に向っているように思えるのだ。
 今日の月はいつになく、黄色が鮮明だ。これほどの明るい黄色をいまだかつて見たことがなかった。
――真実も同じ光景を見ているに違いない――
 と思うと、何か不思議な気持ちになってきた。
 湯を指でなぞると、静かに波が立つ音が聞こえるようだ。その音がいかにも温泉の音という感じで、今まで感じていなかった疲れが一気に襲ってくるのを感じているようだ。
「ザザー」
 心地よい音が響き、睡魔を誘う。
 温泉の暖かさに比べ、首から上は先ほどまで感じていなかった冷たさを感じた。風が出てきたのかと思ったが、お湯に浸かってから感じた冷たさだった。きっと身体全体が敏感になっているからに違いない。
 ゆっくり浸かっていると、その冷たさも感じなくなった。空を見上げるとさっきまで大きく見えていた月を湯気が隠している。そのせいか先ほどよりも小さく感じてしまうのだった。
――何か忘れていたものを思い出して来たような気がする――
 湯から出ると、柴田は宿の中にあるロビーへと向かった。そこでくつろいでいると、以前にもここでくつろいだことがあるような気分になってくる。
 新聞でも読もうと雑誌置場に向かうと、そこには雑記帳が置かれている。雑記帳には、どうやら以前この宿を訪れた人たちの旅の感想や、宿への感想が書かれている。柴田も学生時代には雑記帳を見つけては、よく書いたものだ。
 以前はこの旅館にも客が多かったのだろう。最初の頃の雑記帳は数ヶ月に一度で一冊を使っていた。それが半年に一冊、一年に一冊というように変っていき、次第に書く人も減ってきている。
「二年くらい前から読んでみるか」
 なぜそのあたりから読む気になったのか、自分でも分からない。このあたりから、客が減ってきたからかも知れない。
「どれどれ」
 ゆっくりとページを捲っていくと、学生の書いたものがほとんどであることはすぐに分かった。サークルの合宿などに使われていたこともあったようで、サークル名を筆頭にして寄せ書きのようになっているページもある。
「やっぱり、昔は繁盛していたんだな」
 思わず一人で頷いていた。
 寄せ書きを見ていると、面白い内容を目にした。面白いというより、一瞬恐怖を感じ、そこで目が止まってしまったのだ。
 一年半くらい前のことのようだ。
 一人の男が宿を訪れている。内容とすれば、傷心旅行と書かれているが、女に対する恨みはほとんど書かれていない。書いてあることはあくまでも自分のこと、
「自分が情けないから別れることになったんだ、決して女性が悪いわけではない。自分に力がないんだ。誰を恨んでも仕方がない。恨むなら自分に対してだ。私は自分で自分にけじめをつける。そのためにここにやってきたのだ。ここに来れば勇気が湧いてくるような気がするのだ。誰にももう止めることはできない。私はこれを書いたことを後悔しないだろう。なぜなら後悔などする時間がないのだから……」
 文章はそこで止まっていた。
 読み終えて何やら背筋に冷たいものが走るのを感じた。思わず、その前のページを捲ってみた。
 そこには同じ筆跡の男の字があった。さっき見たのよりもかなり大きな字で少し乱暴であるが、力強さがあるのだ。日付はさっきの文章より二ヶ月前になっている。
「私はやっと彼女とここまで来ることができた。優しい彼女は根性なしの私についてきてくれる。本当に嬉しい。今日も一緒に来ているのだが、いつも静かに私のそばにいてくれる。何とも私にとって心強いことか。そう、いくら動くことがなくとも……」
 またしても背筋が凍りついた。
――二人とも生きているのだろうか?
 そんな思いが頭をよぎる。読んでいて情景が浮かんでくる。見たことがないはずなのに
女性の顔が脳裏に浮かんでくる。
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次