短編集77(過去作品)
だが、欲をまったく感じないというわけではない。時々無性においしいものを食べたくなったり、女性を抱きたくなったりする。そんな時にはハッキリと身体が求めていることを感じ、本能のまま行動することもある。しかし、決まって行動したあとに襲ってくる自己嫌悪に苛まれてしまうのだ。罪悪感ということよりも、自分自身が本能に負けて、考えていなかったお金を使ってしまったことに嫌悪感を感じるのだった。
風俗街をフラフラ歩いていてそれこそフラリと入った店で、女の子が相手をしてくれた。その時のことが時々思い出される。何とも甘い雰囲気に包まれた心地よさがあり、店を出た後に感じた嫌悪感など微塵も感じない。少なくとも店の中で女の子と一緒にいた時間は至高の悦びに満ち溢れていたに違いない。
名前を聞いたが覚えていない。名刺も貰ったがどこにやったか……。それだけ自己嫌悪に苛まれていたに違いない。だが、店の中での気持ちは今の自分に通じるものがあったことだろう。
風俗に初めて足を踏み入れたのも、最初から、
「いくぞ」
と、心に決めていたわけではない。当時はパチンコをしていたので、それで設けたあぶく銭があったのだ。何に使うか迷っていると飛び込んできたのが風俗街のネオン、思わずフラフラと足が向いていた。
風俗街のネオンには一種の魔力のようなものがあると思うのは柴田だけだろうか。言い訳のようにも感じるが、実際にネオンの中を歩いているとおかしな気分になってきたのも事実で、吸い寄せられるように店に入った時は、まるで楽園に迷い込んだような錯覚があったのだ。
店の中に入ると男の人が何かを言っているが気にならなかった。中から出てきた女性に連れられて気がつけば小さな部屋へと連れて来られていた。
――こんなところで――
目を瞑れば浮かんできそうだ。
電車に乗っていて、遠くに沈む夕日を見ている時に、ネオンサインを思い出していたが、それは街のネオンではなく、部屋の中の怪しい明かりだったようにも思う。
その時の女の子と、真実は似ても似つかないにもかかわらず、なぜかダブッて感じるのはなぜだろう?
風俗にいた女性は身体も大きく豊満だった。
そうだ、ちょうど先ほどの影に風俗の女性を思ったのは気のせいだろうか。
終点らしく、駅に着くと正面に線路止めがあり、駅舎があった。表に出ると寂れた商店街があり、あとはタクシー乗り場があるだけだ。タクシーに乗り込んで行き先を告げる間もなく発車したところをみると、顔見知りでもなければ行き先は温泉と決まっているのだろう。旅館も一軒しかないらしく、よほどの秘湯なのだということが想像つく。
表に出て最初に空を見上げた。眩いばかりの無数の星たちが、煌いている。まさしく星屑という言葉がピッタリな星空だ。
「今日は少し肌寒いですね」
タクシーの運転手が首だけを少し傾けるようにして話し掛けてきた。バックミラーをみると目が合ったので、きっとミラーで我々の表情を確認しているのだろう。
いくら少ないとは言え温泉地のタクシー運転手だ。そのあたりは心得たものに違いない。
運転手は続ける。
「私はこの間までF市のタクシー会社に勤めていましてね。最近こっちに来たんですよ。お客さんたちみたいに、最初はビックリしましたがね」
最初から柴田と真実の表情を見ていたのだろう。確かに駅舎から出た瞬間ビックリした表情になったが、それも一瞬だけのことで、あとはすぐに我に返っていたはずだった。
柴田は自分が我に返ったのと同時に真実の顔を見たが、そこにビックリした表情はなかった。よく考えてみれば彼女はここを訪れるのは初めてではなかったのだ。
それにしてもF市とは、柴田の勤務先のあるところではないか。知らぬところで会っているかも知れないし、彼のタクシーに客として乗ったことがあったかも知れない。
「F市ですか。私もF市に会社があるんですよ」
「そうですか、大きな会社が多いからですね」
「ええ」
大きな会社というより、流通団地になっているところがあるので、会社が密集している地区がある。柴田の会社はそこの外れの方にあり、比較的駅に近い方に位置していた。
「それにしても奇遇ですね。懐かしいな」
「いつ、こちらに?」
「えっと、半年前ですかな? 半年しか経っていないから変わっていないとは思うんですがね」
いくら時間の流れが都会は早いからといって、そんなにコロコロ変わるものではない。運転手は田舎に来て感覚が少し鈍っているのだろう。
歳はまだ若そうだ。どう見ても三十代前半、家庭持ちなのだろうか? 雰囲気からすればまだ遊びたいような感じに見受けられるが、そういう人に限って家庭を持っていたりする。子煩悩でいつも子供のためにおみやげを買っていってあげるところを想像するのは容易なことだった。
「半年だったら今から行く温泉には何回も行っていますよね? どんなところなんですか?」
少し返事に困っているようだった。さっきまでの間髪入れない会話ではないからだ。
「どうって、他と変わりませんよ。強いて言えば、露天風呂から見える星空は絶景に値しますね」
「先ほど、駅に着いてすぐに空を見上げたくらいですから、星空の素晴らしさにはいきなりビックリさせられましたね」
「無意識だったでしょう? 空を見上げるの。私も最初に来た時、そうだったんですよ」
確かに無意識だった。見上げながら横を見ると真実も見上げていた。彼女も最初にここに来た時に見上げたのだろうか。
「無意識にすることって、あとから考えると、あっという間のことが多いですね。あの時の私もあっという間の出来事でした」
柴田は運転手との話に夢中になっていた。隣の真実の表情を気にしていなかったが、ふっと見てみると、真実の表情が固まっていた。無表情というべきか、それだけに怖さを感じるのだ。
柴田が真実を気にした理由、それは運転手が柴田を見るのと同時に、真実の方を見ていたからだ。最初はそれが気にならなかったが、急に真実の顔を見る運転手の顔色が最初と違ってきているのに気付いたからだ。
さすがに露骨に顔を横に向けるわけにも行かないと感じた柴田は、ミラー越しに真実の表情を見た。顔は完全に表を見ていて、窓ガラスに反射している自分の顔を見詰めているかのようだ。睨み付けているようにも思え、きっと唇をかみ締めているのではないだろうか。
――最近の自分になかったような表情だ――
と柴田は感じた。いつも無関心で、細かいことを気にしないために、記憶力が落ちたように思っている柴田は、真実のその表情から目が離せなくなってしまっていた。
――自分もあんな表情をしていたことあったんだろうな――
すぐに考え込んでしまい。答えのない問題を必死に考え、結局袋小路に迷い込んでしまうのが自分だと思っている柴田だった。
宿に入ると、お互いに取っていた部屋へと案内されたが、二人が仲良く入ってきたのを見てどう思っただろう。しかし、泊り客は二人だけである。途中電車を使うなら一本しかなく、しかも一時間に一本あるかないかというローカル線、同じ車内に居合わせることは十分に考えられる。今までにも同じように仲良くやってきたカップルも少なくないだろう。
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次