短編集77(過去作品)
今までの生活の中にも同じことが言える。柴田の性格がそうさせるのか、とにかく自分が納得行くまで、とことん突き詰めてみる。それで見つからなかったら、自分の中で存在しないことを確信するようにしている。それがいつも考え事をしていることであり、最近はその考え事をしなくなったことで、自分に対して少し不信感を持っていることに繋がってくるのだ。車窓を見ていて、今さらながらに考えさせられた。
そう、久しぶりに一生懸命に考えている。最初は漠然と考えているつもりだったが、次第に深くなっていき、理詰めで考えるようになっている。これが柴田であり、旅行に出ると開放感から、以前の自分を取り戻せると思ったことが正解だったと感じるのだ。
「きっと、彼女の真剣な目つきや、屈託のない顔を見て、以前の自分を思い出したに違いない」
当たらずとも遠からじだろう。漠然としているが、次第に考えが纏まりつつあり、もう一息で元の自分に戻れそうだった。
表を見ていると、浮かび上がった輪郭の後ろに、誰かがいそうに思うのは気のせいだろうか?
後ろを振り向けば薄暗い中には誰もいない。しかし、明かりが薄暗いだけに、車内全体が影のようで、窓に写っている風景が実像のような錯覚に陥ってしまう。窓の向こうが果てしなく広い世界であると思うのは、影から見ているからだと思うのも無理のないことだろう。
ここから感じる世界では、窓に写った自分と、窓を見ている自分の二人だけしかいないにもかかわらず、その気配が自分を見つめているように思うのは、さっきまでそこに真実が存在していたからだろう。
トイレに歩いていった真実の後姿が残像として瞼の裏に残っている。その真実の足元から伸びている影が、やけに大きく見えたのだ。
真実にも柴田の影が大きく見えていたように思えてならない。まるで影絵のように、壁全体に映し出された影が蠢きながら二人を見下ろしている……。そんな光景が目に浮かぶのだ。
子供の頃に見たアニメ映画のワンシーンを思い出す。人の影が勝手に動き出し、それが悪魔のように写るのだ。口には牙のようなものがあり、尻尾が生えている。尻尾の先は槍状になっていて、手にも槍を持っている。今から思えば滑稽な姿だが、子供心にはオカルト映画のようで恐ろしかった。
真実がトイレに行ってからどれくらいの時間が経ったのだろう?
気がつけば、反対側にも漆黒の闇が訪れていた。真実が帰って来るのが遅いのか、それとも日が暮れるのがあっという間なのか、よくは分からない。きっとどちらもなのだろう。
闇というのが怖いものだということを、しばらく忘れていたように思う。闇が怖いと思うのは子供である証拠だと思っていたところがあるからだ。だが、却って大人になってからの方が怖いということに、その時初めて気付いたのだ。
ずっと怖くないと思っていた暗闇に対し、急に恐怖感を覚えたのだ。子供の頃に戻ったようにも思えるし、子供時代が昨日のことのようにも思える。恐怖という言葉自体が、頭の中に封印されていたようで、ふとした瞬間にそのキーが開けられることを予期していたのだ。
それがこの瞬間である。
真実が思い出させたのか、それとも車内の雰囲気なのか分からない。真実という女性、最初は小柄で小さな女性だというイメージがあったが、車窓を見ながら思い出してみると大きな女性のように思えてくる。影がそう思わせるのだ。
目の前を通り過ぎる景色に、ところどころ光が見えてきた。どこかの街に近づいてきたのだろう。道の両端に点在している街灯の明かりも明るくなっている。民家が増えてきているのが次第に分かってきた。
電車のスピードが少しずつ落ちてくる。どこかの駅に着くに違いない。そういえば、かなり長い間駅に止まらず走り続けたように思うのは、それだけ田舎は駅間が長いからだろう。
真実はまだ帰ってこない。時間が経っていると思ったが、意外にそれほど経っていないのではないだろうか。
駅に到着すると、車内の明かりが急に明るくなったように感じた。乗ってくる人もおらず、隣の車両からおばあさんが一人、ホームに降り立っただけだ。まるで行商のように背中に籠のようなものを背負っている。もんぺのようなものを穿いて、手拭いを頭に巻いていかにも田舎の光景だ。
二両編成の電車には、どうやら後は柴田と真実だけになってしまったようだ。平日の温泉に行く電車だからこんなものだろう。扉が大きな音を立てて閉まる。昔の車両なので仕方がないが、それだけまわりがシーンとしているのだ。音がゆっくりと消えていき、あとに残ったのがキーンという耳鳴りだけだ。それをも吸収するかのような空気に、柴田は酔っていた。
「それにしても遅いな」
なかなか帰ってこないので、立ち上がって隣の車両を覗きこんだ。
すると、今しもトイレから出てきたのだろう、真実がこちらに向って歩いている姿が見えた。偶然にしてはあまりにもできすぎているが、そのことをあまり深く考えようとしなかった。
きっと不思議なことはいつも柴田のまわりを支配しているのだろう。それについて一つ一つ考えていては、キリがない。細かいことをいろいろと考えなくなったのは、そのせいもあるに違いない。
真実の姿が次第に大きくなってくる。
「こんなに大きかったのか?」
と不思議に思うくらいだ。
「本当に真実なんだろうか?」
そう感じる自分が信じられない。
影が歩いているように見えるのだ。錯覚だと気付いたのは、影を感じたからだ。真実の身体は思ったより小さい、座っている時には大きく感じたが、立ち上がり踵を返してトイレに向かう時など小さく感じたものだ。
隣の車両から連結器を通りこちらに戻ってくると、真実にさっきの影を感じなくなっていた。扉を通しての錯覚だったに違いない。
「すみません、行ってきました」
そう言って元の席に戻った真実、さっきまで見ていた姿がそのまま目の前に鎮座しているのだ。トイレに立っている間の時間があれだけ長かったと思ったわりには、鎮座した姿を見ると中座した時間があったとは思えないくらいだ。それこそ夢を見ていて、目が覚めた時のような感覚である。
次第に先ほどの影の印象が薄くなってくる。それも夢を見ている時の感覚と似ている。夢を見ていてその内容を忘れていくにしたがって起こる苛立ちは、以前にくらべてそれほどでもなくなった。これも細かいことを気にしなくなったことにも繋がるのではないだろうか。
「あと十五分程ですね」
腕時計に目を落とした真実が呟いた。柴田もつられるように腕時計に目を落としたが、別に時間を気にしているわけではない。日が暮れてしまえば、それほど時間が気になる方ではなかった。
いつもであれば仕事が終わる頃にはすでに日が暮れていて、まわりの景色を気にすることもなく、家路を急ぐだけである。途中には空腹で鳴いているお腹をくすぐるような店が誘惑を誘うような匂いを靡かせているが、最近ではそれも気にならなくなっていた。
――慣れというものだろうか?
それだけだとは思えない。最近は深く考えないことが無気力感に繋がり、生まれ持った欲というものすら感じなくなっているようだ。
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次