短編集77(過去作品)
目の前に現われた彼女、この女性には柴田が想像していたような雰囲気がある。落ち着きがあって、言葉を選んで喋っている大人の雰囲気。それでいて屈託のない表情は、穢れを知らぬ純情な乙女を思わせる。
温泉についての話で、少し盛り上がった。柴田も一応調べてきたつもりである。秘湯と言われるところなので、なかなか資料はなかったが、それでも図書館で少し調べていた。だが彼女はさらに詳しかった。温泉というもの自体にも詳しいし、これから行くところに関しても、柴田よりはるかに情報を持っていた。
「かなり詳しく調べて来られたようですね」
「ええ、元々温泉が好きなので、いろいろ本を読んでいました。その中でも今から行く温泉は最高の部類に入りますね」
「そういえばお名前窺っていませんでしたね。私は柴田といいます」
「柴田さんですね。私は津村真実っていいます。よろしくね」
真面目な顔が、屈託のない顔に変わった。それは一瞬のことで、まるで百面相を見ているようだ。
屈託のない笑顔なのだが、最初に感じたのとは少し違うような雰囲気がある。柴田が妙だと思って覗き込んでいると、口元が微妙に歪んでいる。
――そうか、大人の色香を感じるんだ――
甘い香りがあたりに漂っていて、それは相手に好かれた時にだけ感じるもののようだ。以前付き合っていた女性が自分を求めている時に感じた香りに似ている。似ているが微妙に違うので最初は分からなかった。しかし、男としての自分を思い出させるには十分だった。
「真実さんの今回の旅行の目的は?」
その言葉を聞いた途端、
――しまった――
と感じた。彼女の表情が一瞬にして変わったからである。少し曇りがちな顔になったのだが、屈託のない表情からだったので、あまりにも表情の変化が激しかったように感じたのだ。その後の言葉をお互いに探っていた。
「これといって目的らしいものはないんです。ただ、しいて言えば忘れていたものを思い出したいってところかしら?」
忘れていたものとは何だろう?
その言葉を聞いて柴田は自分の目からウロコが落ちたように感じた。自分も同じような質問をされたら、きっと少し考えて同じように答えるに違いないと思ったからである。
今までに知り合った女性の中に真実のような女性がいなかったことは間違いない。お互いに学生同士で出会うことが多かったので、大人びた考え方の女性はいなかった。特に女性から声を掛けられたこともなく、いつも自分から声を掛けている方なので、驚いたくらいである。
それにしても忘れていたものとは何だろう?
それは真実の忘れていたものというよりも、自分の忘れていたものである。
今の柴田は学生時代に戻りたいとは思わない。なぜなら、一番今が前だけを向いているだけで成長できる年齢であることを分かっているからだ。学生時代は成長過程とは言いながら、実社会に関してはまったく知らない未知の世界だったはずだ。それだけに前だけを向いていることに恐怖感を感じていた。
社会人になってからもこれから先への不安がないわけではないが、前だけを見て自分を信じるしかないと思っている。自分に自信を持つなら今が絶好のチャンズなのだ。一つの自信からいろいろ繋がっていって、自分にゆるぎない自信を持つことができると信じている。
先ほどの屈託のない顔をした真実を見た時、懐かしさを感じたような気がした理由の一つが分かったように思う。学生時代に柴田がいつも思い浮かべていた女性、それが笑顔に屈託のない女性だった。普段がどんな表情をしていようとも、笑顔の時だけは屈託のない表情を満面に浮かべているそんな女性である。
真実の目に柴田はどのように写っただろう。普通の旅行者としてだろうか? いや、そんなことよりも意識は年上として見ているのか、それとも年下として見られているのだろうか、話をしてみれば自分が年下に見られているような気がする。
女性の場合の忘れていたものが、かなり昔の記憶のような気がするのは柴田だけだろうか? 女性というのは男性に比べ、成長期の成長は著しく激しいように思う。肉体的な変化もさることながら、精神的なものも大きいに違いない。何しろ子供を産むだけの体型やそれに伴った体力を持ち合わせていなければならない。男性の柴田の想像を絶するものであろう。
精神的にも著しい成長があるのだから、記憶というのもその時々で残し方が違うだろう。一気に大人になったように思うのか、時間を掛けて大人になったと思うのか、それこそ個人差だろうが、過ごしてきた時間を過ぎ去ってから思い返すと、きっとあっという間だったような気がするのではないかと思えてならない。
しばらく二人で表を見ていた。反対側の最初柴田が座っていた側の窓にはまだかすかに明るさが残っているようだったが、北側に向っている車窓には漆黒の闇が広がっていた。
その闇は果てしなく続いていて、田園風景の少し先には、海があるのだけが分かっている。途中にある道を行き交う車もほとんどなく、街灯すらないところに窓から漏れている明かりが線路沿いを薄く照らしているだけだった。
「少し気持ち悪いわね」
「そうですね。反対側はまだ少し明るいところも残っているんですが、こちらは真っ暗。そのために、車内が写っているだけですね」
鏡のようになっている窓に写った景色だが、車内の中央を縦断している明かりのため、
顔の表情は影のようになって浮かび上がり、そこには輪郭だけが映っているだけだ。
「ここから見ている景色って不気味ですわ」
「そうですね。真っ暗なはずなんだけど、車内の景色が窓に浮かび上がっているからね。どんなに車内が薄暗くとも、窓の外の暗さには勝てないんだね」
表にいたら吸い寄せられそうな暗さだろう。都会の風景も、昼と夜とではかなり違った顔を見せてくれるが、田舎の風景はそれとは比べものにならない。なぜなら夜の顔はないからだ。
――すべてを覆いつくす闇――
それが存在するのみである。
まるで固まってしまったかのように二人とも身じろぐこともなくジッと表を眺めていたが、急に真実が、
「すみません、ちょっとおトイレに行ってきます」
と言って席を立った。
なるほど、足元にはビールの空き缶が置かれている。彼女が飲んだのだろう。ブルッとしたのを感じたかと思うのが早いか、真実は立ち上がっていた。
「どうぞ、確か隣の車両ですよ」
指を指した先を真実も振り返り、納得したように頷くとゆっくり歩き始めた。お互いに緊張の糸が途切れた瞬間である。真実をトイレへと目で見送った後、柴田はまた暗闇を見つめ続けた。窓に写った車内が邪魔だったが、それでも、表の暗闇から何かを見つけようとするかのようにである。
その何かとは自分でも分からない。だが納得の行くものが見つけられるのではないかという思いがその時の柴田を支配していた。
「闇は、どこまで行っても闇だよな」
独り言のように呟いたが、それも一生懸命に何かを見つけようとして見つけられなかったから言える言葉だった。
作品名:短編集77(過去作品) 作家名:森本晃次