記憶
それがいつだったのか思い出せない。綾香には過去を振り返った時、不思議な感覚に陥ることがあった。
――数年前のことは昨日のことのように思い出せるのに、一か月くらい前のことはまるでかなり前にあったことのように思うことがある――
ということだった。
記憶の中の時系列が狂っているとでも言えばいいのか、それとも過去の思い出の方が印象に深いことであり、記憶の引き出しとしては容易に引き出せるものだったのか、そう考えれば辻褄が合うのだが、この場合、単純に辻褄が合っただけでは納得できない何かが頭の中に存在していた。
綾香が思い出したのは、どうやら数年前の記憶のようだ。今までに一度も引き出したことのない過去の記憶、あすなが引き出してくれたのかどうなのかも、綾香には定かではなかった。
綾香が思い出したあすなとの共通点。それは、
「視線を感じるのに、気配を感じない」
というものだった。
数年前ということは、まだ小学生くらいの頃のことだったように思う。相手は同じクラスの子ではなかったということは分かっているが、そう思うと、どうやら同年代の人に感じたものではないような気がした。
そう思うと次第に思い出せてきたような気がした。
――そう、あれは私が小学校五年生の頃だったような気がする。相手は中学生のお姉さんだった。お姉さんは私の方を見つめているのだけれど、その視線は明後日の方向を向いていた――
綾香はそこまで思い出すと、その時のお姉さんの顔が思い出せそうで思い出せないという中途半端な状態になっているのに気付いた。
まるで生殺しのような感覚で、気持ち悪い。
――こんなことなら思い出さなければよかった――
と感じた。
その時に感じた視線を数年経って、それがまるで昨日のことのように思い出されたのは不思議であったが、綾香にとっては、それほど不思議に思えることでもなかった。
もっと不思議に感じたのは、綾香がその顔を思い出そうとした時、すぐには思い出せなかったが、思い出そうということをやめたその時、ふっと浮かんできた顔があった。
――あすな――
そう、その顔は今自分が意識しているあすなの顔だった。
そんなに何年も経っていて、それまでに思い出そうとして思い出せなかったことを、こんなにいとも簡単に思い出してしまう自分に驚いていた。
そう思うと、自分があすなに声を掛けたのも理解できたような気がする。
どういって話しかけたのか、すぐに忘れてしまった綾香は、まるで声を掛けた自分が夢の中にいるような気がしていた。緊張すら通り越した心境に入り込んでいた綾香は、まるで自分があすなという女性を孤独から救っている救世主のように感じていたようだ。この感覚は、
――あすなに声を掛ける人がいるとすれば、きっと皆同じ気持ちになるんじゃないかしら?
と感じることであった。
ただ、綾香には不思議なことがあった。
――あすなは、私と知り合った時のことを覚えていないようだ――
というものであった。
しかも、あすなの中で記憶は錯綜していた。なぜなら、綾香の方では、
「話しかけたのは自分」
と思っているが、あすなの方ではそうは思っていない。
ある時は、
「話しかけたのは私の方よね」
と言ってみたり、別の時には、
「あの時は話しかけてくれてありがとう」
という返事が返ってくることがあった。
記憶が錯綜しているのか、他の人と間違えているのか、それとも、出会いをあすなが夢に再現として見て、その時の記憶と交錯しているのか、そのうちのどれかではないかと思った。
信憑性があるとすれば、一番最後の、夢との交錯という発想が一番しっくりくる気がする。確かに夢の中で見たのだとすれば、意識が交錯してもそれは仕方のないことで、潜在意識が見せるものが夢だとして、そうなると、あすなはどのような潜在意識を持っているというのか、綾香には興味があった。
元々、あすなにも綾香にも仲のいい友達など存在しているわけではない。他の人と間違えるということはありえない気がした。
あすなが出会いのことを話題にした時、
「そういえば、小学生の頃、私をじっと見つめていたお姉さんがいたのよね」
と、綾香は言うつもりはなかったのに、口から出てしまった。
さすがに、
――しまった――
とまでは思わなかったが、あすながどんな表情をするか見ものだったのでじっと見ていると、別に意に介したようなイメージはなく、
「綾香さんは、見られることに敏感なのかしらね」
と言われた。
「見られることに敏感というよりも、見られているのに、相手が自分を意識していないのが怖い気がするの」
「それは相手の視線が別の方向を見ているというようなこと?」
「それに近いかも知れないわ」
厳密には違っているが、あすなの言葉は的を得ていた。
あまりにも的を得ていたので、それをそのまま認めることが怖く、
「かも知れない」
という曖昧な表現で締めくくった。
あすなは、知り合えば知り合うほど、綾香には分からない存在になっていた。行動パターンにしても、その言動にしても、綾香の想像を超えていることも多く、
――ついていけない――
と感じさせることも往々にしてあったくらいだ。
そんなあすなを綾香は、最初は怖いとは思っていなかった。怖いと思っていたとしても、それは恐怖とは違った意味での怖さで、どちらかというと、こちらを見透かしているかのような様子に怖さを感じていた。
しかし、知り合ってくるうちに、その怖さも解消されるようになり、
――友達になってよかった――
と、安堵で胸を撫で落とす気分になった。
だが、それを超えると今度は今まで分かっていたはずのあすなが分からなくなってきていた。
――あすなは、分かっているような気がする――
自分が変わっているということを意識していると綾香はあすなに感じたが、分かっていても自覚しているだけで、意識までしていないということに、綾香は分からなかった。
「自覚はしていても、意識はしていない」
という感覚、あるいは、
「意識はしていても、自覚はしていない」
という感覚、綾香はどちらもありなのだろうと思っている。
なぜなら、この二つの考えの原点は同じところにあり、それぞれに派生したもので、その派生は放射状のものであり、
「逆も真なり」
という言葉でいい表せるものではないかと思っていた。
あすなにとって綾香という存在は、それほど自分の中で大きなものではないという思いを綾香は抱いていた。しかし、それが本当にそうなのか、綾香は自分を信じられない。あすなの態度を見ていると、それほどでもないと思うのだが、あすなの持つ曖昧な雰囲気は掴みどころのない彼女の本質を、叙実に表しているかのように思えるのだ。
「綾香があすなを怖がっている」
この感覚は怖さの種類を知らなければ、きっとあすなには分からないことではないかと思えた。綾香にとってあすなは、
「想像を絶する相手」
という意識があるが、本当のあすなは普通の女の子でしかないのだった。
それを理解できるかできないかで、あすなと綾香の運命は決まっていくのではないだろうか。