記憶
「だって、なるべくならあまりまわりと接したくない私に声を掛けてきたのは綾香なのよ。私は綾香と一緒にいることに自分なりの正当性を考えないと先に進めない気がするの」
と、正直に答えた。
――こんなことを言えば嫌われるに違いない――
相手にとっては屈辱的な言われ方である。
「せっかく声を掛けてあげたのに、その言い方はなんだ」
と思われても仕方がない。
だが、あすなは嫌われてもいいと思った。自分と意見が合っていたり、正当性をお互いに理解できる相手でない限り、友達になったとしても、近い将来、どちらかが、いやどちらからもお互いに傷つけあって、最悪の別れを迎えるのではないかと思っていたからだった。
綾香に対して、最初は
――こんな私に声を掛けてくれるなんて、まるで天使のようだわ――
と思っていたはずの相手なのに、自分でもこの豹変ぶりには驚いている限りだ。
だが、たかがアプリで喧嘩別れするというのもおかしなことで、
――こんなことで喧嘩別れするくらいなら、最初から友達になんかならなければよかった――
と感じることだろう。
それは、お互いに同じように思っているのだろうが、その度合いには、かなりの差があるような気がした。
あすなが感じているのは、最初からそう思っていたわけではなく、アプリのことで生じた、ほんの小さな綻びが大きくなるのを目の当たりにしている気分になったことだ。
綾香の方とすれば、最初から、つまりは声を掛けた瞬間から、あすなとはどこかで行き違いになるかも知れないという予感を孕みながら、なるべく気持ちが通じ合っている時は、一緒にいるように心がけていたようだ。
覚悟という意味では最初から持っていたのは綾香の方だが、降って湧いた覚悟を強いられたあすなのその時の気持ちは、ずっと培ってきた綾香よりも強かったのかも知れない。
だが、そのおかげなのか、綾香の方は最初から覚悟していたつもりの別れを、この期に及んで、急に怖いと思うようになった。あすなが攻撃的であればあるほど、
――このまま別れたくない――
という思いに駆られたようだ。
怖さを感じることで、今まで歩み寄ることを知らなかった綾香があすなに歩み寄った形だが、それは恐怖好きの綾香だからこそできることだったに違いない。
綾香は覚悟は持っていたが、実際に怖いと思うことはないだろうと思っていた。そもそも今まで、
「君子危うきに近寄らず」
という思いを抱いていたこともあって、怖いと感じる以前に、相手から離れていた。
バーチャル・アプリ
あすなを相手にしていると、どこか怖い部分も感じながら別れることをしなかったのは、綾香にとって自分から声を掛けた最初の人である。今までは人に声を掛けられることはあった。そんな時はすぐに相手に対して恐怖を感じた綾香の方で、すぐにブロックしていたことから、
――自分に声を掛けてくる相手というのは、何か打算的なところがあるか、恐怖を醸し出している人しかいないんだ――
と思うようになっていた。
だから、綾香は自分を利用しようとしている人には敏感になっていた。といってもそのほとんどは、暗くてまわりに友達もいない綾香と仲良くしているところをまわりに見せつけ、自分はどんな相手にも優しいというポーズを示し、さらに綾香に対しては、友達になってあげたという上から目線で見ることができるという考えからであった。
そんな浅はかな考えは、綾香のようにすぐに自分をブロックしてしまうことで身を守ってきた相手には通用しない。誰よりも敏感な相手に対してのこの仕打ちは、綾香が見ても、いや綾香以外の人がまわりから見ても、いかにもわざとらしいという思いを抱かせるに違いなかった。
だから綾香は自分に声を掛けてくる人をほとんど信用していない。それは学校の先生にしても同じだった。
――どうせ自分の保身のために、私のような生徒でもどうにかしないといけないという義務感でしか話をしてこないんだ――
という思いが前提にある以上、綾香の心を開かせるのは先生では無理だった。
ひいては、先生を見ていると、大人は皆同じにしか見えてこない。どんどん視野が狭くなってくるのだが、綾香はそれでもいいと思った。
「信用を寄せていた人に裏切られる」
そんな思いをするくらいなら、最初から信用などしないに越したことはないからだ。
あすなに声を掛けたのは綾香の方だった。あすなはいつも一人でいることが多く、他の人から見れば、あすなも綾香も一人でいるという意味では、同じ部類の人種に見えたことだろう。
決して近い存在ではない。真ん中に大きな輪があるとすれば、二人は輪の反対側にいて、お互いの存在すら意識することはないのかも知れない。
「石ころのような存在」
あすなが、以前に読んだマンガの未来アイテムがまた思い出される。
あすなの方では確かに綾香が見えていたはずなのに、存在を意識することはなかった。
「眼中にない」
という言葉があるが、それ以前の問題である。
眼中にはあるのだが、存在を意識することはない。つまり、綾香の存在が自分に何ら影響を与えることのないということである。
――ひょっとして、自分に影響を与えるということだけは意識していたのかも知れないわ――
と後になってであるが、あすなは考えた。
誰かを石ころのような存在だという意識を持たないということは、見えているのに意識していない場合、その残像が自分に与えるものが何もないことになる。だが、何か残像に値するものがあるとすれば。自分に影響を与えることがないという事実を認識していると思えば、自分の中で納得できる気がした。
綾香はそんなあすなの存在を、綾香が石ころのような存在だと思っていたとすれば、
「何か自分に影響を与えてくれる人」
という意識があったようだ。
これはあすなが思っている感覚とまったく正反対である。むしろ綾香の方が普通と言われることであり、あすなの感覚の方が、普通ではないと言えるのではないだろうか。そのことを綾香は分かっているつもりだった。
綾香はあすなのことが徐々に気になるようになっていた。一気に気になったわけではない。元々あすなのことが見えていなかったからだ。
これもあすなが綾香のことを見て、
「見えているのに意識しない」
というのと正反対である。
綾香は、あすなのことが気になりだしたのは、あすなの視線を感じたからだった。その視線は他の人とは明らかに違っていた。
――こっちを見ているはずなのに、気配を感じない――
というものだった。
あすなの視線には気づいているのに、あすなの方で見ているという意識を感じないということであり、この場合の意識を綾香は、「気配」という言葉で表した。
綾香にとってこんな感覚は初めてだった。それまで意識していなかったあすなの存在が俄然意識の対象になってくる。それでも最初は、友達になるなどという感覚はなかった。興味はあるが、どこか近寄りがたい雰囲気があったからだ。
綾香はあすなを見ながら、
「今までにも彼女のような人と会ったことがあるような気がする」
と感じていた。