記憶
あすなにも自己愛が存在した。それを最初は、自分のわがままだと思っていた。そう思うことが普通であり、誰もが同じことを思うものだと感じていたが、それを今のあすなとしては、
「当たらずとも遠からじ」
だと思っている。
確かに自己愛を持つ時期というのが思春期には存在しているものだとあすなは思っている。そして、自己愛を感じた人が三つのパターンに別れるのではないだろうか。
一つは、そのまま自己愛を持ち続け、ナルシストのようになっていくパターン、もちろん、その中でも自分も中だけで隠している人もいれば、ナルシストとして表に出している人もいる。
もう一つのパターンとしては、思春期に感じたことを完全に忘れてしまうパターンである。ナルシストを見ていて毛嫌いするような人なのか、自己愛を拒否ってしまう。それは意識してのことなのか、無意識のことなのか、人それぞれなのかも知れないと、あすなは感じた。
もう一つのパターンは、思春期に感じた自己愛を、一度は忘れてしまうのだが、また思い出し、忘れて思い出してということを定期的に繰り返すというものである。このパターンが一番稀なのだろうとあすなは思うが、一番分かりにくいタイプでもあることから、知らないだけで、もっとたくさんいるのかも知れない。
「ご自愛ください」
という言葉を、手紙などでよく見ることがあったが、挨拶としての言葉なのに、その言葉にその人の性格が現れているような気がする。
普通は、
「体調を崩さないようにしてください」
という意味に取れるのだろうが、あすなは自己愛との関係を考えてしまう。
さらに一歩進んで、その言葉が高貴な女性が使う言葉として考えたなら、その言葉には無意識に、相手に対しての愛情が含まれているように思えた。
特に女性が男性に対して使う言葉であれば、恋愛感情であり、女性が女性に使う言葉としても、恋愛感情が含まれていると思うのは奇抜な発想であろうか。
女性と女性の愛情をあすなは否定する気はない。
思春期の頃にレズビアンという言葉を聞いて、最初は何かドロドロしたものをイメージした。だが、友達が見ていた少女マンガを見せてもらったことがあったが、それは女性同士の恋愛を描いていて、濡れ場もそれなりにあった。エロいという感じを受けることがなかったのは、少女マンガ風に描かれていることで、百合や植物を背景に使っていることで、イメージとしてリアルさが薄れていたのかも知れない。
普通なら少女マンガだけの世界としてレズビアンを意識するだけなのだろうが、あすなはクラスに思いを寄せる女の子がいて、その子を対象に見てしまった。
どちらが男役というわけではなく、ただお互いを貪るようなイメージのレズビアンなので、絡み合う姿を自分で想像するのが好きだった。
――きっと私は、彼女とそういう関係になって、行為に溺れていても、もう一人の冷静な自分がいて、二人の行為を見つめている――
という意識があった。
さらには、
――それを見ているもう一人の自分も感じることがある――
と感じるほど、あすなは行為をしている自分と、それを見ている自分とを別のものとして考えてしまう。
それはまるでいわゆる、
「幽体離脱」
の感覚なのかも知れない。
自分の目だけが自分の身体を離れて、冷静に見ている。その時、抱き合っている自分は目を瞑って、相手の指の動きに集中し、見られていることを分かっているのかどうか分からない。
だが、想像が途切れてからは、思い出すのは、
「行為に溺れていた自分」
だけであった。
つまりは、見ているという感覚はもうすでにないが、もう一人の自分の存在は覚えている。要するに自分が見られていたという感覚が冷静になると感じられるようになるのだった。
そんなレズビアンに、あすなは不思議と恥ずかしいとは感じない。本当は羞恥心を感じたいという思いがある。
――羞恥心を感じることで、想像の余韻をもっと楽しむことができたはずなのに――
と感じるからだった。
羞恥心を感じるということと自己愛とは別のものだと思っていたが、実はそうではなかった。自己愛を感じる時、一緒にどこか羞恥心のようなものがあった。どこから来るのか考えてみたが、
「羞恥心とは、人には知られたくないと思うもの」
という意識から生まれたものだった。
羞恥心は、自分の中だけで恥ずかしいと感じる。もしそれを知られてもいい人がいるとすれば、愛する人だけである。
ただ、それは相手が男性であれば逆に一番知られたくない人ではないだろうか。知られてしまうと関係はそこで終わってしまうという思いが強く、それはきっと同性でないと分からない感覚ではないかと思うからだった。
だからといって、男性に羞恥心がないというわけではない。ただ、女性のそれとは違うものではないかと思うのだった。なぜなら、男性と女性とでは明らかに身体の作りは違っている。
「お互いの足りないところを補う関係」
それが男女だと思っている。
補うために身体が反応し、生殖器と呼ばれるものが力を発揮し、種の保存のための儀式を行うというのが、人間の生業ではないかという考えもあるだろう。
これが性教育を語るうえでの一番の正論ではないかと思う。思春期に聞くと顔が真っ赤になるが、それも一種の羞恥心。それを嫌だと捉えるか、人によっては、心地よいものとして受け入れる人もいるかも知れない。
それを気持ちのいい快感として捉えることで、その快感を正当化しようと頭の中で考える。それが自己愛というものだと考えるのではないだろうか。
そう感じた自己愛は、きっと消えることはないだろう。そのまま自己愛として自分の中で形成される。ただ羞恥心から生まれた自己愛の場合は、ナルシストと無関係の場合もあるだろう。そういう意味では、自己愛とナルシストを、
「切っても切り離せない関係」
だということはできないだろう。
自己愛を感じていたあすなは、中二病の友達が持っている自己愛と自分の自己愛とは種類の違うものだと思っていた。いや、そう思いたいという感情が強く、それは彼女に対してだけではなく、
「私は他の人と同じでは嫌なのだ」
という基本的な考え方はあるので、他の人に対しても似たような感覚を持つことは多かった。
彼女の自己愛は自虐の反対だという思いもあった。
彼女の自虐は結構強かった。そもそも妄想するのも、自虐が強く、自分が勇者として悪魔を倒すといういわゆる、
「中二病的な妄想」
を普通に抱いているのだが、その中で見え隠れしているのが、自虐だった。
それは自分がこの世界でノーマルに生きることができないというもので、本当は自分の正体を他の人に知られたくないという思いを抱くことが自虐に繋がるのだった。
「知られたくないと思うのに、悪が蔓延ることを他の人に知らせなくてもいいのだろうか?」
という思いがあり、それがジレンマとして心の奥にあることで、それを自虐だと感じるのだ。