記憶
そこで、何らかの事件があり、自分の親が死ぬことになったらどうなるかという問題である。
分かりやすい説明として、
「親殺し」
と言われるが、自分が関わることで死ぬはずのなかった親が死んでしまうことになったとすれば、自分が実際に手を下したのではないとしても、それは親殺しとして成立するのではないかと思える。
要するに発想としては、
「親が死んでしまうと、自分が生まれない。自分が生まれないと、自分が過去に返って、親が死ぬという状況を作ることができない。親が死なないと、自分が生まれてしまう。生まれてしまうと、過去に行くことになる……」
という矛盾した連鎖が、永遠に続くことになる。
これがいわゆるパラドックスなのだ。
しかし、一つの考え方として、この不可能なことを説明するには、パラレルワールドという考え方があるだろう。
つまり、
「過去に戻って、過去を変えてしまうと、そこから続く未来はすべてが変わってしまう。どの瞬間であっても、存在している時を『現在』と考えるならば、その次の瞬間には無数の可能性があり、少しでも違ったできごとがあれば、別の可能性が開ける」
という考え方である。
この考え方は、ロボットの考え方の「フレーム問題」と共通しているものがある。
そういう意味では「フレーム問題」の原点も、ここでいうパラレルワールドの発想に由来していると言えるであろう。
あすなはそれを、
「パラレルワールドと矛盾の組み合わせ」
だと思うようになっていた。
異次元と言われるものも、三次元までは説明はつくが、四次元の発想となると、いろいろな説がある。パラレルワールドも一種の四次元の世界になるのだろうが、果たして、
「四次元の世界」
という一括りで表していいものなのだろうか。
無数にあるパラレルワールドを一つの次元と考えると、四次元と呼ばれる世界は、多重に存在していることになる。
しかもその多重というのは、理論上「無限」なのである。
パラレルワールドは、三段論法によって証明されるもので、きっと一つの論理だけでは説明できるものではないだろう。「親殺しのパラドックス」であったり、「フレーム問題」であったりと無限の可能性を次元と考えるのは無理があるであろうか。
パラレルワールドが存在している限り、「親殺しのパラドックス」にしても、「フレーム問題」にしても、無限の可能性はそれ自体だけには限らない。その解決法を考えた時、さらに無限が用意されることで、
「永遠に繋がっていく無限」
を創造してしまい、抜けることのできないループを形成することになる。
それこそ、「無限」ループであり、ここでいう「無限」という言葉はただ言葉のアヤというだけではなく、「親殺しのパラソックス」であったり、「フレーム問題」などに関わることで、奥の深いものに感じられてしまう。
矛盾というのも無限に続くことで、いずれ矛盾ではなくなるのではないかとも考えたこともあったが、果たしてそうであろうか?
あすなはそんな不思議な世界への発想を、中学時代に感じたことで、
――思春期にはそんな発想になるのかも知れない――
と感じた。
それが、そのまま大人になるうえでの発想だとすれば、大人になった時、どんな世界が広がっているのか、楽しみでもあった。
しかし、ことわざの中に、
「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」
というのがあるが、自分もある程度まで知識が発達してくれば、飽和状態を迎えてしまって、それ以上の成長が止まってしまうのではないかと思った。
しかし、実際には人間の脳は、数パーセントしか使われていないという。それを思うと飽和状態になることはなく、このままの成長を続けることさえ間違えなければ、成長が止まることはないと思っていた。
もちろん、まだ中学生の女の子なので、三十歳を超えてからの老化について考える必要などサラサラないだろう。
あすなは、その後、中二病的な世界に没頭している女生徒友達になった。
彼女は異世界を信じていて、その発想があすなと共鳴したのであるが、それ以上に彼女の持っている自己愛にさらなる共鳴があったのだ。
あすなは最初、彼女に自己愛があることに気付いていなかった。異世界に興味を持っている女の子で、その言動が同じく異世界、異次元に興味を持つあすなの神経を刺激したのだ。
決して二人には共通している意見があるわけではない。むしろ別の世界を見ているような言動で、時々話が噛み合っていないこともあったが、
「それも発想という意味で、自分にはないものを持っている相手に興味を持つのは自然なことである」
ということを気付かせてくれたという意味で、貴重である。
あすなは、最初に気付かなかった自己愛について、気が付けば気になって仕方がなくなっていた。仕方がなくなったと思った時には、
「これが彼女の自己愛だ」
ということに気付いていた。
「中二病」というのは、
「病」
という言葉が使われているが、実際に治療を必要とするものであったり、精神疾患というものとは無関係であり、一般的には「俗語」のようなものとして使われている。
「中学二年生のような思春期における、背伸びしたいような言動を自虐する言葉」
として言われているものである。
だから、決していい意味で使われるものではなく、一般的には、
「自虐」
なのである。
「自虐に発展するというのは、自己愛の裏返しなのではないか」
とあすなは考えるようになったが、それは彼女と知り合ったからである。
そもそも「中二病」という言葉も、彼女の口から最初に聞かされたもので、その言葉を知らなかったあすなは、知らなかった自分を普通に無知だからだと思っていたが、本当は一般的に知る必要はないものに分類されるのではないかと思えることだった。
その友達も、考え方はあすなに似ているところもあった。根本的には違うのだろうが、共鳴する部分が多いということでそう感じるのだが、彼女があすなに感じた、
「似ているところ」
という発想は、あすなが感じているものとは若干のずれがあったようだった。
お互いにそのことを口にして話をしたことはないので、ハッキリとは分からないが、彼女が異世界の話をし始めた時、自己愛の影を感じるようになると、そこで、
――どこか噛み合わないところがある――
と感じた。
それが彼女の自己愛であり、あすなにはあるはずなのに、自分で気付いていない部分であるということにその時はまだ気づいていなかった。自分に自己愛があるということに気付くのと、彼女の自己愛が自分とは違っているということに気付くのと、そんなに時間が変わらなかったような気がする。
それだけあすなは、彼女の自己愛についても、自分の自己愛についてのことも、自分で思っていたよりもアッサリと理解できたのではないかと思えた。
自己愛というものを単純に、
「ナルシスト」
という言葉で言い表していいものなのかどうか、あすなは考えさせられるところがあった。