記憶
――自分だって私と同じ子供時代があったはずなのに、どうしてそれを忘れてしまったかのように、自分も子供の頃にしていたようなことを、堂々と叱ることができるのかしら――
と感じたことがあった。
それは、
「誰もが通る道だ」
と言ってしまえばそれまでの気がするが、子供のあすなにも、親としてはまだまだ道半ばである母親との間ではかなりの距離になっているのではないだろうか。
やはり母親の方にジレンマがあるに違いない。
成長するにあたって、
「もうあなたは子供じゃないんだから」
という言葉を何度も聞かされることだろう。
その都度、
――まだまだ子供――
と、心の中で呟いたとしても、それは言い訳にしかならない。
あすなは克幸が五年生であったこの時期を、自分の五年生の時期に当て嵌めてみた。
「何もなかった一年間」
それがあすなの小学五年生の頃の記憶だった。
だが、思い出してみると、あの頃、自分は誰かに見られていたような気がしていた。断続的にその思いがあり、忘れた頃に、
――またあの視線だわ――
と感じるのだが、その思いがあまりにも断続的すぎて、前に感じた思いがどのようなものだったのかを忘れてしまうほどだった。
小学五年生の時のことは、その当時意識していたものではなかった。このゲームをするようになって自分のその当時を思い出すようになって感じたことだった。今までの年代では実際に覚えていたことを思い出すことばかりだったが、今回は記憶に残っていたことを思い出したわけではなく、思い出したことに必然性はなかった。
それだけに信憑性もない。しかし、今までに思い出したことよりも意識は鮮明だ。それは今までが記憶の奥に隠れていたものを引き出すことで、過去へ意識をタイムスリップさせ、整合性と信憑性を確認するのだから当たり前だろう。今回のことは思い出したというよりも、見られていたという感覚が意識になってよみがえってきたことなのだ。
だから相手が誰だったのかどころか、どんな人だったのかも分からない。女性だったのか男性だったのか、大人だったのか子供だったのか、あるいは自分に関係のある人だったのか、まったく関係のない人が、偶然見ていただけなのか、そのあたりからハッキリしていないのだ。
小学五年生の記憶は、それ以外にあったわけではない。いや、あったのかも知れないが、見られていたという意識を持ってしまったことで、打ち消されたのかも知れない。自分の中ではそれほどの意識のように思えないのだが、ゲームをやりながら過去を振り返っている自分にとっては大きなことだったのかも知れない。
小学生も残りわずかになり、そろそろ克幸が中学に入る時がやってきた。季節はもちろん春、あすなは自分が中学に入学した時のことを思い出していた。
桜舞い散る季節というのは、暑さも寒さも感じることなく、吹いてくる風に心地よさしかないこの時期、雨が降れば桜は散ってしまい、そこかしこに咲き乱れていた時と違って水に浸って重たくなった花弁が、惨めにも誰からも意識されない「石ころ」のごとく、踏みにじられている。そんな光景を見ながらあすなはたった一週間前、そこで華々しく花見が催されていたことを思い出し、悲しさなのか虚しさなのか、気持ちが次第に薄れていくのを感じた。
それは桜に対しての気持ちの薄れではない。何かを感じるということに気持ちが薄れているのではないかという思いであった。ただ桜という媒体が目の前にあって、その感覚を思い起こす役割をしているだけだった。
あすなは自分が中学校に入学した時の春、初めてそのことを感じた。小学生の頃には、そんな気持ちが薄くなる感覚を感じたことはなかったが、桜に対してもさほどの感情をもし這わせていたわけでもなかった。
――こういうのを、感傷というのかしら?
とあすなは感じたが、感傷というほど、心の中に傷ができるわけではなかった。
気持ちが薄れていくだけで、痛みを伴うものではない。むしろ痛みを伴うのであれば、痛みに耐えかねて、感覚がマヒすることで、薄れてくる感覚と感じるものではないだろうか。
あすなは中学に入学することで小学生の頃には感じたことのなかった感情がたくさん生まれてくるものだと思っていた。そのまず最初が思春期という時期に感じる思いである。思春期がどういう時期なのかというのは漠然としてしか分からないが、初潮を迎えてから、毎月のように襲ってくる生理痛に鬱状態を感じていると、それ以前から感じていた躁鬱状態が、自分の中でハッキリしてくるのではないかと思えたのだった。
小学生の頃でも躁鬱状態の入り口は分かっていたつもりで、躁鬱状態を定期的に繰り返すということも分かっていた。だが、そのメカニズムが自分にどのような影響を与えるのかまで考えることはできなかった。なぜなら、
――その感覚は思春期にならないと分からないものだ――
と自分で思っていたからだった。
小学生の頃も、躁鬱症について勉強まではしないまでも、経験からいろいろ分かっているつもりでいたが、どうしても踏み込めない領域があることにそのうちに気付くようになった。一種の、
「結界」
とでもいうべきものであろうか、結界が見えてくるまで自分でもよく分かるようになったと思っていたが、
「その結界をいつか破ることができるのか?」
あるいは、
「この結界を破ることで自分がどのような幸運や災難に見舞われるというのか?」
ということを考えてしまった。
しかし、いずれは破らなければいけない結界であれば、それが大人へのステップアップとも考えられる。一番近い感覚としては。やはり思春期だと言えるのではないか。あすなが他の人よりも思春期というものを意識している一番の理由は。この結界を意識しているからだと思う。
だが、このことは誰にも話しているわけではない。ひょっとすると、この感覚はあすなだけではなく誰もが持っているもので、人に喋ってはいけないというタブーに価するものだとすれば、あすなは自分の考えていることが突飛なことだとは思わなくなっていた。
思春期になると、まわりの反応が少し変わって見えた。本当の友達というものを選別できる目を養えている気がしたのだ。
今まで同様に友達のように話していた人が、急にその言葉に重みを感じなくなってきた。そう思って聞いていると、言葉の端々や抑揚に、忖度や愛想のようなものが感じられ、自分が人の考えの内面を読み取れるようになったことで成長したという意識を持つようになった。
だが、それは逆も言えた。つまり、自分がまわりの人の態度に、見え隠れしている相手の本心をしっかり見えてくるようになると、相手も自分の本心をしっかりと凝視できているのではないかということだ。
しかもそれは自分本人が感じているよりも鋭く見ているような気がした。鏡でも見ない限り、自分で自分の顔を見ることができないように、相手からは自分では見えない部分もバッチリと見えていると思うとゾッとしてきた。