記憶
あくまでも先生の作り上げた世界にあすなが入り込んでいるのであって、それは自分が自己暗示に掛かりやすいからではないかと思うようになっていた。
ゲームをしながら、保健の先生のことを思い出すと、ゲームをしている自分が中学生ではなく、先生のような妖艶な女性であるという想像をすると、子供がいてもおかしくはない年齢であることから、お乳が出るという想像妊娠に近いことがあっても、それは不思議でも何でもないような気がしてきた。
ただ先生の中に母性本能が果たしてあるのかと感じた時、パッと見てそれはないように思える。だが、先ほど妄想した先生と頼りない男の他人の目を意識している光景を思い出すと、頼りない男に頼りにされている先生が、その男を守ろうとしているイメージを継ぎの想像として受け入れているように感じた。その思いが先生の中に母性本能を感じさせ、ひいては先生のことを思い出している自分にも、先生のような母性本能が芽生えているのを感じた。
――母性本能って、皆同じようなものなんだろうか?
とあすなは思った。
子供に対して親が持つ思いというのが直訳なのだろうが、先生のように、頼りない男に頼られて、守ってあげたいと思う心境も、広義の意味での母性本能だと考えられる。ではこの二つは同じものだと言えるのだろうか。母性本能というのはあくまでも、
「親が子供を思う気持ち」
というのであれば、先生のような母性本能は、元々の母性本能の派生型と言えるのではないだろうか。
あすなに母性本能があるとすれば、どっちであろうか?
まだ子供もいないあすなだが、ゲームの中で克幸を育てている。そこでまるで想像妊娠でもしたかのように、一瞬であったが、母乳が出たような気がしたのは、自己暗示に掛かってしまったということだけで言い表せるものなのだろうか。
あすなはこのゲームに春奈という女性が登場してきたことの意味を考えてみた。
ゲームが勝手に登場させた人物には違いないが、綾香の話では、
「このゲームでは、急に新たな登場人物が出てくることがあるの。唐突なんだけど、ゲームを進めていくうえで必要なキャラクターであることが次第に分かってくるようになるわ」
と言っていた。
春奈を見ていると、どこか保健の先生に似ているところが感じられた。春奈が大人の女性という雰囲気を醸し出しているわけではないが、どこか克幸にとって春奈の存在は、
「頼りがいのある女性」
と写るところだった。
それはあすなが想像した、頼りない男とまわりを意識しているくせに、まわりに気配を消そうとしている雰囲気からは想像できないものであったが、
――春奈はあすなが先生に感じたくない部分を、先生から取り除いたようなキャラクターなのかも知れない――
と感じた。
あすなはまだ小学五年生になったばかりの克幸には、春奈のような女性の存在を、
「まだ早い」
と思っていた。
それはきっと母親の発想なのだろう。もし自分がそのまま中学生として見ているのであれば、
「小学五年生なんだから、女の子の友達がいてもおかしくはない」
と感じるだろう。
それはまだ思春期を迎えていない男子なので、相手を異性として見ていないことで、初恋であったとしても、それは好きだという意識ではなく、憧れに近い意識ではないかと思ったからだ。
――初恋というものを、自分は本当にしたことがあったのだろうか?
とあすなは感じた。
――あれが初恋だったのでは?
というのは、思い出そうと思えばないわけではない。
だが、思春期を迎えたわけでもない自分が人を好きになったという意識があったわけではないだろう。あったとすれば、それは憧れでしかなく、憧れが恋愛だったと思うのは、思春期を迎える前のまだ異性を意識していない時期だったことを逆に証明しているように思えた。
小学五年生からは、春奈という女性が登場し、春奈と一緒にいる時期を小学五年生で味わうことで、それまであっという間に取ってしまった歳の辻褄を合わせているかのようだった。
小学五年生から六年生になると、少し二人の間にぎこちなさが生まれた。
それは春奈の方が先に思春期に入ったからだった。初潮を迎えた春奈は、その時から思春期に突入し、あすなのように初潮を迎えてから思春期に突入するまで少し間があったわけではないことに、あすなは不思議な感じを受けた。
――どっちの方が多いんだろう?
自分の方が希少なのか、それとも春奈の方が希少なのか、よく分からない。
あすなにとって思春期というものの入り口も曖昧だった。男性を異性として意識したから思春期だと思ったのだが、本当はもっと前から思春期に突入していたのかも知れない。
春奈が登場してから、どうもあすなの調子が狂ってしまっているようだ。別に嫉妬しているわけでもないのに何に調子が狂っているのか、よく分からなかった。
――母親として息子に恋人になるかも知れない人が出現したことで、戸惑っているのかしら?
と感じた。
母性本能が嵩じて、母乳が出る錯覚に陥ったくらいなので、ゲームとは言え、自分がリアルに反応しているのは事実のようだ。いや、ゲームだからこそ余計にリアルな反応を示すのかも知れない。普通であれば考えられないようなこともゲームでは容易に想像できてしまうことで、母性本能という意識と連鎖することで、あすなは最大限に母性をゲームの中で発揮しているのかも知れない。
春奈と一緒の五年生は、それまでの小学生生活のすべてを足しても余りあるほどだった。それだけに時間が経つのも遅かったのだろう。ただそれは一日一日も遅かったわけではない。その日その日はあっという間に過ぎ去った気がしていた。
だが、一年経ってから思い返すと、一年前が本当に一年が経ってしまったのではないかと思うほど長く感じられた。日々の感覚と通しての感覚のずれが大きければ大きいほど、その一年が自分に及ぼした力が大きかったということになるのだろう。
あすなはこの一年で何を学んだというのだろう。確かに克幸は成長したが、それは春奈という女の子の出現が克幸を成長させたと言ってもいい。
あすなが母親として子供に責任を持たなくてもいい年齢はまだまだ先のことなのだろうが、関わることには変わりがないので、どうせ関わるのであれば、他人が自分たちの間に入り込むことは避けたかった。
だが、子供の成長という意味では、本当にそれでいいのだろうか。あすなは自問自答を繰り返す。
「たかがゲームなのに、どうしてこんなに克幸に思い入れてしまうのかしら?」
という感覚である。
克幸は、ゲームの中であすなを母親として認識してくれているのは間違いないが、果たして、
「あすな」
という女性が母親だという認識があるおだろうか。
ツバメなどの鳥は、最初に見たものを親だと思うというが、克幸も同じような感覚にしかすぎないのだろうか。
もしそうであるとすれば、いくらゲームだとはいえ、それは悲しいことである。ただ、その感覚は自分も子供であるだけに、母親というよりも心境としては子供に近い。
そういえば、母親に対して、