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記憶

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――きっと理解できるはずのないものなんだ――
 と思うようになった。
「たかがゲーム、されどゲーム」
 まさにそのことなのだろう。
 あすなは自分がゲームをしている時間は、
――ひょっとすると他の人には見えていないのではないか――
 と思うほどに集中していた。
 要するに、自分がゲームをしている姿を他人の目として自分で想像することすらできなかったからである。
 自分でも想像できない姿とはどういうものなのか、考えられなかった。想像してみようとは思わなかったが、のっぺらぼうになっているのではないかと思ったが、のっぺらぼうの自分をなるべくなら想像したくないあすなは、存在自体が誰にも見えないような気がした。
――いや、見えないんじゃなくて、見えているのに気づかれない存在なんじゃないかしら?
 つまりは、「石ころ」の存在である。
 あすなが小学校三年生を思い出していた時期を、克幸が五年生になった頃に思い出した。
――かなり昔だったような気がする――
 まるで自分が小学校五年生の頃に三年生の頃を思い出したような感覚だった。
 実際に小学校五年生の頃に三年生の頃を思い出したことはなかったが、思い出したとすればきっと同じくらいの長さだったのではないだろうか。
 自分のことだと思えば結構短い期間だが、ゲームであれば、相当長い感覚になっているのではないだろうか。
 あすなにとって過去を思い出すというのは、実はあっという間に過ぎたと思っていることだけに、そんなに遠い過去ではないという思いに違いはないはずだった。ただ、近い過去の方が遠く感じられ、遠くなればなるほど、過去の一年間がどんどん短く感じられるのは、肉眼で遠くを見つめる感覚に似ているような気がした。
 トンネルの中で、等間隔に線が引っ張っていたとして、最初の一年間の線はかなり遠くに感じられるが、例えば五本目から六本目くらいの間は、実に短いものに感じられることだろう。
 そもそもそんなに遠くが見えるだろうかというのも疑わしいものである。記憶に残っていることは、インパクトのある印象深いものであって、それはトンネルの中の線とは無関係のものであり、どれに値するのかというのも分からない、何番目の線なのか、詳細が書いていなければ分からないに違いない。
 トンネルの中という発想は、あすなには躁鬱症を思わせた。あすなが躁鬱症を感じるようになったのは、中学生になってからで、思春期とほぼ同じ時期に始まったことで、思春期の始まりがいつだったのかと聞かれると、ハッキリとした時期を答えられない理由の一つになっていた。
 躁鬱症などというと、自分には関係のない他人事のように思っていたこともあって、最初は躁鬱症を、
「思春期の意識の一つ」
 のように考えていた。
 思春期というものをおぼろげにしか分かっていないので、最初は躁鬱も思春期の一部だと思い、誰にでも訪れるものだと思っていた。
 しかし実際には他の人に見られることではなく、今のところ、あすなだけだった。
 ただ、単独で躁状態、鬱状態に陥る人はいるだろう。しかし、あすなのように定期的に陥ったり、躁鬱が繰り返されるということはないと思っていた。だが、もう少し大人になってから知ることになるのだが、躁鬱を繰り返すというのは、単独で訪れるよりも稀なものではなく、却って単独の方が稀であるらしいということであった。
 トンネルを感じたのは、トンネルの中の黄色い明かりをイメージしたからだった。
 躁鬱に陥った時、躁と鬱、どっちが最初だったのか覚えていないが、鬱状態の時というのは、見えている色に変化が訪れたということだけは意識していた。
 感覚としては、
「夕方のイメージ」
 である。
 昼間の眩しさを感じることはなかったので、色も漠然として感じてしまい、信号の青も赤も緑であったり、鮮やかさを感じなかったりしたのだ。それが夕方では、そのギャップからなのか、それとも一日の疲れからなのか、全体的に黄色く感じられる。ごく細か埃が舞っているかのようなイメージで、黄砂が飛んでいるような感覚だった。だから黄色い色がイメージされて、トンネルの黄色い明かりをイメージさせたのだろう。
 だが、逆に夜になると、真っ暗な中に浮かび上がる信号機の赤は真っ赤に、そして青は真っ青に見えるのだ。夕方に疲れを吸収することで、夜には目が冴えてくるという感覚である。
 もう一つ、躁鬱のパターンとして、繰り返しというものがある。躁状態を抜けると鬱状態がやってきて。鬱状態を抜けると躁状態がやってくる。ここには黄色信号は存在せず、鬱状態から躁状態に移行する時、逆に躁状態から鬱状態に移行する時には、その予感があるのだ。
 それはトンネルの中でトンネルを抜ける時に、表の明かりが差し込んでくることで、
――いよいよトンネルを抜ける――
 ということが分かるのと実によく似ている。
 鬱状態から躁状態に移行する時と、逆とではどっちがハッキリと分かるのかと聞かれると、
「鬱状態から躁状態に抜ける時の方がハッキリしている」
 と答えられるのは、このトンネルの感覚が自分の中にあるからなのかも知れない。
 もう一つは、
――躁状態よりも、鬱状態の自分の方を、本当の自分が理解できているのではないか――
 という思いがあるからだ。
 これはトンネルを抜ける時に感じる、トンネルの黄色に表の明かりが差し込んでくることでトンネルを抜けるというのが分かるという感覚に似ていると言えるのではないだろうか。
 思春期になる前に躁鬱症を感じた人が他にどれほどいるだろうか?
 あすなにしても、今思春期を感じていることで、あの頃が躁鬱症だったのだということを自覚したのだった。あの頃、確かに信号機を見ての感想や、気分の移り変わりへの予感めいたものがあったということは自覚していたが、それが躁鬱症だったのだということと結びつくことはなかった。
 思春期になって、自分でも思春期について本を読んだりネットで調べたりしていると、そこに躁鬱症というサイトが検索に引っかかって、気になって見てみると、それが過去の自分の経験とマッチしたのであった。
 思春期を感じながら昔のイメージを想像していくと、躁鬱症になっていた頃の自分を思い返してみて、思わずゲームの克幸に、自分の過去を重ねてしまっている自分に気付いた。
 するとどうだろう。自分が思い出している様子が、そのままゲームの中の克幸に影響を及ぼしていることに気付いてしまった。
――そんなバカな――
 ありえないことではあるが、あすなはそのありえないことよりも、自分が克幸に影響を与えてしまったという自責の念の方が強かったのだ。
 どうしてそんな心境になったのか、それほどあすなはゲームに入れ込んでいるということなのか。いや、そんなはずはない、このゲームでは、
――自分のことを忘れて、母親になったような気分で生まれてきた克幸のことを見守っていこう――
 と感じたはずだった。
 確かに最初はそのつもりで、途中までは最初の意志が忠実に進行されていたはずだった。それなのに、どこから間違えたのか、もし間違えたとすれば、それは自分の躁鬱症を思い出してしまったからだろう。
作品名:記憶 作家名:森本晃次