記憶
綾香はここまでは説明してくれたが、
「ここから先は、やっていて気になることがあったら、聞いてくれていいからね。でも、私もまだそんなに先のことは分からないので、聞かれてもすべて答えられないかも知れないわ」
と言われた。
ただ、ここまでがこのゲームの根幹であり、これだけが分かっていれば、ある程度まではやりながら覚えていけるのだろう。逆に言えば、単純なゲームなのだが、派生的な発想はいくらでもあるので、基本的なことしか話ができないということではないだろうか。
ゲームを始めて一か月が経った頃には、すでに赤ん坊から幼稚園、さらに小学校入学まで行っていた。最初はもっと早く成長するのではないかと思っていたが、それは一か月経ってから振り返って思ったことであって、育てている毎日はその日一日があっという間に過ぎてしまうという感覚から、却って早く育ったような気がしたくらいだった。
一か月で十年育つくらいの感覚であろうか。だが、一か月の間で成長が一定だったという意識しかないが、実際には微妙に違っていた。後で綾香の聞いた話であるが、どうやら休日には成長が早いという。
綾香からはその事実だけしか聞かされなかったが、冷静になって考えてみれば、それも当然のことだった。
「学校に行っている平日は、授業があったりして、ほとんど構ってあげられる時間はないけど、休日は一日中でも構ってあげられるので、成長が早いのも当たり前と言えば当たり前のこと」
なのである。
あすなは、一か月も経てば、このゲームの特性がある程度分かってきた。
確かに他の子育て育成ゲームとほとんど変わらないのだろうが、このゲーム独特の発想もあった。平日と休日の違いで成長の速度が違うというのは理屈としては分かったが、同じ平日でも若干の違いがあることに後になってから気付いた。このゲームの特性として特筆すべきは、
「後になってから気が付くことが多い」
ということであった。
そのほとんどは、自分でも、
「よく気が付いた」
と思うことであって、
――もし、このゲームをしていなければ、気付くことがなかったような気がする――
と感じた。
要するに、このゲームは自分が思っているよりも、プレイすることで、子育てだけではなく、自分も成長しているのだ。それは親としての成長というわけではなく、人間としての頭脳の成長であったりすることを続けているうちに気付かされ、嬉しく思う毎日であった。
あすなは、育ってきた子供が小学三年生くらいになると、自分の小学生時代を思い出さないわけにはいかなかった。
克幸は大人しい男の子で、友達もおらず、いつも一人でいるような子だった。だからと言って親にべったりというわけではなく、一人でいるのが当たり前のようなタイプだった。
だが、友達のいない子は、その方が普通だった。あすなも自分が小学生の頃、似たようなタイプだったから分かるはずなのに、そう思えなかったのは、
「思えなかったのではなく、思い切れなかった」
という感覚である。
自分が今の克幸くらいの年には、男の子を意識することはなかった。だが、男の子としてではないが、気になる男子生徒がいたのは事実である。別に好きだったというわけではなく、気が付けばいつも目に入ってしまって、気にしないわけにはいかなかったのだ。
彼はいつもあすなの視線の先にいた。大人しい子であったので、本当に存在感と言っても、誰にも気にされることのない、本当に「石ころ」のような存在だった。あすなが石ころを気にするようになったのは、確かにアニメの影響ではあったが、石ころという固定的な観念ではなく、気配もなければ存在感も皆無に近い人間がそばにいるということを意識するようになったのは、この子のことを気にしていたからなのかも知れない。
他の誰からも気にされることもなかった彼は、仮に輪の中心にいたとしても、誰も気にすることはないだろう。気配を消していると言ってもいいくらいに人から気にされることはなかった。
ただ大人しいというだけでは説明できない雰囲気を彼は持っていた。大人しいだけであれば、相手にされないというだけであすなも気に掛けることはなかっただろう。だが、彼はいつもあすなの視線の先にいた。あすなが顔を上げて最初に見るのは、なぜかこの子だったのだ。
小学三年生の時に同じクラスだっただけで、後は同じクラスになったことはなかった。その一年間でずっとあすなの視線の先にその子はいた。小学三年生の時の一年間はあっという間だったと思っているが、この子のことを思い出すと、そのあっという間だった一年間への意識が本当だったのかと自分で疑問に感じるほどだった
しかし不思議なことに四年生になってクラスが別になると、あれだけ目の前で視線を合わせていたということを、まったく忘れてしまったかのようであった。彼という男の子の存在は分かっているのだが、記憶という引き出しに彼のことは入っていなかった。
確かに話をしたこともない。目が合ったとしても、それから先は何もなかった。だが、目を合わせたという意識は鮮明にあったはずだ。現在であるその時に意識したことは、過去になると記憶として引き出しに仕舞われるという思いでいたあすなには、納得のいかないことだった。
存在は意識しているのに、記憶として残っていないというのはどういうことなのか、四年生になって少ししてから考えたりはしたが、結論が出るわけもない。そもそも小学四年生でそんな難しいことを意識するというのも不思議なことだと思ったが、してしまった意識に自分の感覚がついてこれなかったことで、次第にその問題を忘れてしまっていた。
「喉元過ぎれば熱さも忘れる」
と言われるがまさにその通りだった。
目を合わせている時は不可思議な現象として気になっていたが、目を合わせることもなくなり、記憶の中にすら残っていないのであれば、忘れ去ってしまうのも無理もないことだ。
あすなはその子の表情が思い出せなかった。中学になった頃から、彼の視線を思い出すようになった。記憶に残っていなかったはずなのに、おかしなことである。
これは、その子ではなかったが、中学に入って自分を見ている視線と目が合ったということで急に思い出したことだった。きっと思春期という時期には、そういう過去のことを思い出す機会というものがあるのかも知れないと思った。
この頃のあすなは、
「デジャブ」
という言葉を知らなかった、
――前にどこかで……
という記憶になかったはずのことを急にかつて見たり聞いたりしたことがあったものだとして意識することである。
あすなのこの時の感覚はきっとその「デジャブ」だったに違いない。
デジャブはあすなが小学生の頃に感じて、残ったはずの記憶を呼び起こすものだった。あすなが記憶の引き出しにないと思ったことは、実は別の引き出しの中にあったのかも知れない。それはあすなが死ぬまで意識することのない「引き出し」であり、その引き出しの存在はおろか、デジャブという現象を知らずに一生を終える人もいるのではないかと思えることからその引き出しは仮説でしかない発想ではないだろうか。