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記憶

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――私は恋愛には向かないのかも知れない――
 と感じたのも事実だった。
 思春期になれば、確かにそれまでと比べて男子に対しての視線はまったく違うものになった。好きだという意識があるのかどうなのか、自分でも分からないが、身体が勝手に反応してしまう。それこそが思春期の思春期たるゆえんだと言われれば納得は行くが、それにしても身体と精神が一致しないことが、これほどムズムズした思いを抱かせるということに初めて気が付いた。
 やり切れない気持ちとは少し違う。もっとも中学生のあすなに、
「やり切れない気持ち」
 などという思いに至るような経験がそんなにあるとは思えないが、まったくなかったわけではない。
 解決できないほどの重たいものではないが、解決以前に勝手に消滅していることが多い。これも思春期ならではのことなのかと思ったが、思春期というのが男の子をオトコとして認識できる年齢になったとすると、自分も女の子からオンナになったような気分になってしかるべきなのだろうと思った。
 やり切れない気持ちのほとんどは、見えている先にいるのが男の子の場合がほとんどだからだ。やはりあすなも思春期を迎えたことで男子を意識しているのだろう。だが、いつも間にかその気持ちを忘れてしまっていたり、冷めてしまっていたりする。
――気のせいだったのかしら?
 とまで思うにも関わらず、また少ししてやり切れない気持ちを抱くようになる。
 それはいつの間にか定期的に感じることになっていた。
「忘れた頃にやってくる」
 とよくいうが、忘れたというよりも、冷めてしまった時の方が、結構早い時期に訪れたりする。
 定期的とは言ったが、何か月に一度とかいうような時期的な定期性ではない。だがそれでも定期的にと思うのは、自分が感じる精神的な転機にも法則性があり、その法則にしたがう形で繰り返されることがあすなの中で、
「定期的な繰り返し」
 を感じさせるのだった。
 あすなは、自分のそんな考え方に対して、
「自衛本能」
 を感じていた。
 何からの自衛なのかというと、ハッキリはしないが、少なくとも男子に対して、
「興味もあるが、危険な香りを感じる」
 というところから来ているのかも知れない。
 思春期になるまでは、男子に対してあまり興味を持ったことがなかった。
――いや、本当にそうだったのかな?
 とあすなは思ったが、今から思い返してみると、気になる男の子がいないわけではなかった。
 その子は名前を克之と言った。名字は確か新田だったと思う。だが、その子に対してあすなは、
「新田君」
 というよりも、
「克之君」
 という方が多かった。
 それは彼が望んだからだ。
「名前の方で呼んでほしいな」
 と言っていた。
 あすなは、その理由について別に言及することはなかったが、このことを後になって他の人に話すと、
「珍しいわね」
 と言われた。
「どうして?」
 と言うと、
「普通、名前の方で呼ばれると、親から呼ばれているような気がするから、嫌がるものだって思うんだけど、わざわざ名前で呼んでほしいなんてね。マザコンなのかしらね」
 という返事が返ってきた。
 小学生なのだから、マザコンというのも少しおかしいような気がしたが、いわれてみれば克之がマザコンだったという思いは確かにあった。克之と一緒にいたのは小学生の高学年になってからだったので、低学年の頃とはどこかが違って見えた。それは、自分が変わったからだというのもあるが、一緒に成長しているのだから、
――意識しなくてもいいことを意識するようになったからではないか――
 と思うのもまんざらおかしな考えでもないかも知れない。
 克之は男の子の中でも本当に大人しい方だった。どこかのグループに入るということもなく、いつも一人でいた。
――他の人からは、私が思っている「石ころのような」存在なのかも知れない――
 と感じた。
 つまりは目の中に被写体としては飛び込んできているのに、その存在を意識することはないというものである。
 だが、存在自体が意識の外なのか、存在は気付いているが、意識しないのか、どっちなのだろう。言葉にすれば、どちらも同じようにしか聞こえないが、前者は無意識のものであり、後者には意識的なものが働いている。後者は意識的と言っても、半分意識していると言ってもいいくらいのもので、気付いているという感覚が、半分意識に繋がっているのではないかという考えである。
 あすなは中学に入ると、その子のことは頭から消えていた。彼は成績がよかったことで、中高一貫教育の私立中学に合格し、あすなたちとは別の道を進むことになった。実際に中学に入ってから一度も会ったことはない。だが、あすなが彼のことをまったく意識しなくなったのは中学に入ってすぐからであり、まるで彼の存在が最初からなかったかのような思いがするくらいだった。
 中学二年生になって、いきなり思い出したのはどうしてだろう? 中学に入ってすぐに自分が思春期に入ったことに気付いたが、実際にはもっと前から、下手をすれば小学生の卒業の頃くらいから思春期だったのかも知れない。意識していなかっただけなのだが、それは思春期というものがどういうものなのかピンとこないというのもあったが、
――小学生で思春期に入ることはない――
 と自分で勝手に思っていたからではないだろうか。
 中学に入ると、明らかに変わったことがある。それは服装が私服から制服に変わったということだ。
 男子生徒の学生服姿は、小学生時代の服装から比べれば、同じ男の子でも、大人びて感じさせる。逆に男の子から見れば、女生徒の制服は、
「禁断の果実」
 に近い感覚なのではないだろうか。
 明らかに視線には隠微なものを感じ、目立ち始めてきた男子の顔に浮かぶニキビが気持ち悪く見えてしまう。背伸びしたがる男の子を見ていて、幼稚に感じる自分がいるのとは反対に、成長した男子を意識しようとしている自分もいることに気付き、戸惑ってしまっていた。
 男の子の視線を痛いほどに感じる。
――まるで裸にされているような気がする――
 と思うほどで、
――裸を本当に見られた方がまだマシかも知れない――
 というおかしな考えまで浮かんできた。
 後になってこの感情が、
「私はMなのかも知れない」
 と感じることになるのだが、この時はまだそこまで感じていたわけではなかった。
 ただその時感じた男子の視線があすなを変えたのは事実である。男子の視線を感じることで、さらに自分が今思春期に達しているということを再認識できたのだ。
 自分だけで感じているだけでは信憑性はない。人からの視線があって初めて感じる思春期、これはあすなだけではなく、今思春期の真っ只中にいる人、そして思春期を通り抜けて行った先輩たち、そしてこれから思春期を迎える人たちに共通して言えることではないかと思うのだった。
 その効果を与える最大の「武器」は、制服ではないだろうか。セーラー服であってもブレザーであっても、それまで小学生の頃の子供服とは違い、制服を纏っただけで感じさせるものがフェロモンとしての香りを発散させているとすれば、納得のいくものである。
作品名:記憶 作家名:森本晃次