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短編集76(過去作品)

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恋愛(考)



                 恋愛(考)


 田崎洋三は、最近自分が分からなくなってきた。それまではそれなりに自分に対して自信を持っていたつもりだが、急に自信がなくなってきたのだ。何かあっても、
「自分が悪いんじゃないんだ」
 と思うことで自信を失うことなく仕事もこなしてきた。
 実際に仕事で致命的なミスを犯し、もう少しで会社に多大な損害を与えてしまうようなこともあった。悪運が強いとでもいうのか、事が大きくなる前に何とか収まって事なきを得たのだが、それでも精神的なショックは残ってしまった。
 洋三一人が悪いというわけではない。仕事というのは一人の手で成し遂げられるような単純なものではなく、人から人へと渡り歩くことで一つの大きな仕事が完成する。確かにその中で洋三の仕事の占める割合はかなりな範囲に及んでいて、失敗するとすれば要所を占めている洋三の仕事の可能性が一番高い。だが、その仕事は今までにも何度も経験があり、ある意味自信を持っている仕事でもあった。それが一瞬の気の緩みで、もう少しで穴を開けてしまうところだったのだ。
「田崎さん、しっかりしてくださいよ。あなたが落ち込んでいたらどうしようもありません」
 何とか失敗する寸前の危ないところで踏みとどまり、そのまま仕事は無難に終わったが、田崎にとって初めて仕事の怖さを思い知らされた。
 内容としては単純なミスである。
――確認すべきところをしなかった――
 ただそれだけなのだ。
 今までは確認しようがしまいがまったく問題なく進んでいた。それでも確認することは自分の仕事がどこまでうまく行っているかの自分としての確認であり、その確認があるからこそ自信と余裕が持てるのだった。それを今回は怠ってしまったのだ。
「まあいいや」
 そんな気持ちが心のちょっとした隙を作ってしまい、余裕をなくしてしまったのだ。余裕があるからこそ仕事は進むのであって、余裕がないと余計なことを考えて時には不安に襲われてしまう。実際今回、途中でちょっとしたことで我に返ることがあった。それは仕事とは関係なかったが、確認していなかったことが、次第に気になり始めたのだ。
 我に返ると、洋三は得てして悪い方に思考はいってしまうことがある。今回もそうだった。余計なことを考えるから、余裕がなくなる。不安が次第に募ってきて、うまくいっているのかいないのか、その指標がないため、すべてが悪い方へと考えがいってしまう。そのことが自分をいかに苦しめることになるのか、その時は分かっていなかった。
 仕事への不安、それは私生活でも現われた。仕事がうまくいっていたので何となく生活している毎日が充実して感じることを自覚していなかった。仕事の不安のためか、私生活も情緒不安定に陥る。
 それは通勤にも影響してくるようで、朝は満員電車での通勤となるのだが、それほど都会というわけではないので、押されて流されるほどではない。だが座れることはほとんどなく、いつも窓際で表を見ながらの通勤となる。
 流れる景色は毎日同じものだ。季節が変われば太陽の位置が変わる程度で、それ以外に景色の違いなどはない。
 だが、朝の光景を毎日見ていないと気がすまない方で、いつもどこか違いを探しているような気がする。あるわけのない違いを探すことが、何の変化もない朝の通勤の中での唯一の変化であり、毎日マンネリ化した面白くない通勤時間を少しでも活気あるものにしてくれているような錯覚に陥る。
 流れるような車窓を眺め始めて、どれくらい経つだろうか?
 今までに何度の夏を迎えたか考えるだけ馬鹿らしいほどの回数である。それだけ仕事もマンネリ化してはいないかと思うほどで、考えれば役職も課長になっていた。
 最初、主任に昇進した時が一番嬉しかった。それほどの昇給があるわけでもなく、主任といっても役職といえるような権限があるわけではない。それこそ、
「ベテラン平社員」
 という程度で、実際の仕事上での自覚もなかった。
 だが一旦仕事を離れて名刺を見ると肩書きとして書かれている「主任」という文字、錯覚でも努力を続けてきた証拠だと思うと、思わず名刺を見ながらニヤけた顔をしている自分が思い浮かんで顔が真っ赤になることもあった。それだけ若い頃は純情で、やる気に満ちていたことだろう。
「仕事こそ、これすべて」
 と思っていたからこそ、余裕を持って仕事ができたのだし、失敗などもなく、自分のやり方に絶対の自信を持っていた。自信がそのまま余裕に繋がることを、無意識ながら分かっていたからに違いない。
 そんな洋三が犯したミス、本当に単純で初歩的だったのだ。それだけに計り知れないほどの後悔が襲ってきて、自信をなくしてしまうのも仕方のないことだった。
 洋三は人生設計もある程度していたつもりだった。
 二十歳代は仕事に明け暮れ、がむしゃらに進む。そして三十を過ぎれば落ち着いてくるだろうから、その頃に付き合っている人がいればその人と結婚する。会社ではそれなりに役職にも就き、後輩からは慕われているだろう。子供にも恵まれ、暖かい家庭を気付く。郊外でもいいから小さな家を持つこと、それが人生設計のつもりだった。
 二十歳代はよかった。がむしゃらに仕事をしていて、その充実感がたまらない。頑張れば頑張るほど表に数字となって結果が現れること仕事だったのだ。
「これでお金がもらえるなんて、これは最高だ」
 などと心の中でほくそえんでいた。
 要するに責任ということもなく、何かあれば上司がいると思っていた世代。怖いものなしといったところだろうか。それだけに多少の甘えもあっただろうが、それよりもパワフルな力が身体の奥から漲っていたのだ。
 そんな二十代だったからこそ、女性の友達もかなりできた。複数の女性と付き合うこともあったくらいで、
「相手にバレなければいいや」
 くらいに感じていたほど、女性に不自由はしていなかった。
 決して女性蔑視ではなかった。女性を立てることを男の信条とし、その証拠に女は洋三に多少なりとも甘えていただろう。しかし、ある程度の甘えは許しても、あからさまな甘えを許さなかった洋三は、それだけ冷静だったのだ。
 複数の女性と付き合っていても、中には本気だった女性もいた。
「彼女となら結婚してもいいな」
 と感じていて、実際に相手の気持ちを探り出そうとしていたものだ。
 それでも他の女性と別れなかったのはなぜだろう?
 今から思い返してもそれだけが不思議だ。今ならハッキリと言える、結婚しようと考えている人がいれば、その人一筋だということを……。
 そういう意味で洋三の行動にはどこか自分でも納得の行かないところが、その時々でいくつかあった。
 三十代になってそのことを思い知ったように思う。
 実際に結婚したいと思う女性のため、他の女性との付き合いをすべて精算し、その人との人生設計を考え始めた時から、洋三の人生が狂い始めたのかも知れない。
 彼女、名前を美穂といい、美穂は洋三が考えているよりもかなり真剣に結婚について考えていた。ある意味形式にこだわるタイプで、結婚式はいくら以上かけて、親族はどちらが何人呼ぶかなどまで細かく考えていたのだ。
作品名:短編集76(過去作品) 作家名:森本晃次