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短編集76(過去作品)

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 あれは、かなり靄の掛かった朝のことだった。歩いていてそれまであまり感じたことのなかった鳥のさえずりが、やけに気になる日だった。ゆっくりと歩いていたが、息が切れてくるのを感じ、吐く息が白くなっている。それだけ湿気を帯びて少し寒い朝だった。
 いつものようにジョギングをしている老人、犬を散歩させている人、すれ違う人はいつもの面々だ。挨拶をしてくれる人は毎日決まっていて、佐竹も気持ちよく無意識にできる笑みを浮かべ会釈していることだろう。だが挨拶のない人もいて、そんな人はまったく無視だ。
 川原にある公園のベンチに腰掛けた時、すでに息が上がっていた。目覚めはそれほどきつくなく、歩いているうちに目も覚めてきたのだが、なぜか息が切れるのがいつもより字早く、まるで貧血状態ではないかと思えるほどである。
 気がつけば額から汗が滲み出ている。普段でも汗は出るが、それは背中にじんわりと掻いているのが気になるだけで、額の汗はそれほど気にならない。しかし、その日は明らかに額の汗も気持ち悪く、肩で息をしているくらいに呼吸が乱れていた。
 そんな時は、鼓膜にさらに膜が張っているようで、すべての音が籠もって聞こえる。最初は小鳥のさえずりでさえ籠もっていた。見えているものが鮮やかに見えてくるのだが、深い靄が災いして、目の前にあるもの以外はぼやけてしまっている。
 目の前に急に赤いものが現われた。どこから現われたのか考える余裕もなく見上げると、そこには一人の女性がいたのだ。真っ赤なワンピースで、あまりの鮮やかさのため、却って幻ではないかと思ったほどだ。
 長い髪は肩で別れていて、まるでチューリップの花を逆さまにしたかのようだ。少し茶髪かかって見えたが、真っ赤なワンピースによる錯覚ではないかとも思えた。だが、肌の白さはこの世のものと思えぬほどで、まるで白粉を全身に塗っているのではないかと感じさせるほどである。
 何を話していいか分からず、じっと見上げていたが、見つめられた彼女の表情はニコヤカだ。目が合っているはずなのに、視線から何も感じることができない。本当に正対しているのかすら疑問に感じるほどだ。
「おはようございます」
 口元がそう訴えているのを感じたかと思うと、一拍遅れて声が聞こえてきた。少し低めの声で、完全に籠もって聞こえる。籠もっているのはこれだけ靄が立ち込めていて湿気を帯びているのだから当然といえば当然だ。だが、声が遅れて聞こえるというのはどうなのだろう? 高原植物園の温室の中にいるような気分になっていた。それも朝の魔力のようなものなのだろう。佐竹はしばらくその声を忘れることなどないことを自覚していた。
 高原植物園といえば、大きな温室の後ろに、火山があったのを思い出す。温泉旅行に行った時に見たもので、さすがに火山の近くの温泉は早朝も暖かかった。
 しかし霧が濃いもの事実で、よく通行止めになる区間で、佐竹が友達と出かけた時は偶然その霧が綺麗に晴れている時だったようだ。それでも声がこもっているのは、それだけ普段からの湿度の高さを表わしているのだろう。
 そんなことを思い出していると、女性の姿が少し大きく見えている。霧に包まれているからだろうか? 空気全体に影が映っているようで、シルエットに浮かび上がっているように見えた。
 赤い服が、白い霧の中に包まれると、次第に重たい色のように感じられる。影も濃くなっていて、動くたびに軌跡が残りそうに思えるほどである。
 ベンチの横におもむろに彼女が腰掛けた。思ったより身長が高かったようで、腰掛ければ佐竹の目線とそれほど変わらなかった。女性としてはかなりの身長である。彼女の方から話しをしようとしない。少し息が上がっているように感じたが、それも佐竹の呼吸とタイミングがあっているので、和音のように響いている。その響きに心臓の鼓動も含まれていて、彼女の鼓動と一緒に自分の心臓の音まで認識できる。それだけ緊張しているのだ。
 最近は他の人と仕事以外で話すこともなく、プライベートはいつも一人だったので、人がいれば何を話していいのか分からなくなっている。特に女性ともなればなおさらで、頭の中がパニックになっているようだ。
 早朝のこの時間、セメントのような匂いしか感じたことがなかったのに、その日は隣の女性の香りを感じていた。柑橘系に混じって女性独特の鼻をつく匂い、決して嫌いな匂いではない。懐かしさを感じるが、それは母親に感じていた匂いでもあった。
 疑問を感じ続けた母親の優しさだったが、横に座っている女性にはすでに優しさのようなものを感じている。その優しさを感じるのが匂いからだというのも皮肉なことだ。
 フェロモンとでもいうべきだろうか? 一緒にいるだけで、次第に母親とのフェロモンの違いを感じられるようになってきた。
 その時にどんな会話をしたのだろうか? 覚えていない。少しは会話になっていたような気がしたが、後で思い出しても、ほとんど彼女のことについての記憶がないのだ。
 人と知り合うと佐竹はまず自分を知ってもらいたいと思い、自分のことを話す。そうすれば相手も話しやすくなるからで、それが無意識ながらの優しさだと思っている。決して押し付けにならないようにしながら一方的に話すようなことをしない。相手が話したくなれば話をさせるし、きっとあの時も話を聞いたはずである。
 すべてが幻だというには、あまりにも赤い色の印象が深かった。靄が掛かっていた目の前に現われた赤いワンピース、それだけでも衝撃的だったはずだ。顔の印象はそれほどない、それよりも肩まで伸びた茶色い綺麗な髪の毛が印象的だった。
――また会えるかな――
 それだけを感じながら朝の散歩をしている。いつもと同じ時間にベンチへといくのだが、彼女が現われる様子はない。靄もあの時が最高だったようで、あれからどんなに天気の悪い時であっても、あそこまでの靄はなかった。ひょっとして昼間天気のいい時の方が、却って靄が深いのではないだろうか。
 朝の時間はあっという間だ。ボッとしている時間が長いわりに時間が経つのはすぐである。まるで夢心地、完全に目が覚めているのかどうか疑問に思うくらいだ。
 夢というのは、目が覚めてからすぐは、とても長い間見ていたように感じる。しかし目が覚めるにしたがい、意識がしっかりしてくると、あっという間だったように思うのだ。
 それもそのはず、夢というのは目が覚める寸前に見るものだというではないか。意識が夢の中にある間の自分が、本当に自分なのだろうかと感じることもある。しかし紛れもなく自分だと思う佐竹は、本能という言葉を信じるようになった。
――本能が見せる世界が夢――
 そう感じているので、逆に自分の意識の許せる範囲でしか夢というのは見ることができないはずだ。だからこそ夢は果てしないものではない。寝て見る夢には限界があるのだ。
 本能の中に、果たして公園に出てきた女性があったのだろうか?
作品名:短編集76(過去作品) 作家名:森本晃次