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短編集76(過去作品)

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 小さい頃からよくケガをしていた佐竹だが、大きなケガも多かった。木に登っていて枝が折れて背中から落っこちたこともあった。運悪くそこに小石が溜まっていたからたまらない。数秒呼吸困難に陥り、大声を出そうとするがままならない。手を伸ばしてみるが、虚空を掴むだけで、カッと見開いた目から涙が止まらなかった。
 ちょうど誰も見ていなかったのがよかったのだろう。もしまわりで騒いでいるのを感じると、却ってひどい状態ではないかという暗示に掛かってしまう癖があった。その時は本当に苦しかったが、後から思い返すと、まわりが感じているひどさよりも、自分で感じている辛さはさほどではないのかも知れない。
 自己暗示に掛かりやすい性格というのは、時として便利なものである。どうしてもいろいろなことを考えてしまうところがあって、考えすぎるきらいのある佐竹は、
――何も考えずに何でもできればどんなにいいだろう――
 と常々考えている。元々が躁鬱症の気があるため、考え始めると鬱状態に入ってしまうことが往々にしてあったのだ。だが、躁状態にある時は自信過剰になっていて、その勢いでものを考え行動するので、自分で考えているよりも大きな成果を挙げることも多々あった。そしてそれがさらなる自信を生み、また成果を挙げる。
 そこまではいいのだ。今までに何度となく躁状態と鬱状態を周期的に繰り返してきた。今ではその理由も分かっている。
 人間の欲というのは果てしないものである。満たされれば満たされるほどさらなる満足感を求めるもので、そのため、充実感が最高の満足感でありえることはない。充実感がそのうち当たり前に感じられ、得られていた充実感が得られなくなると、今度はストレスを溜めていくことになる。それは仕事においても趣味においても、女性関係においてもしかりである。
 初夏のこの時期というと、今までいいことはなかった。失恋したのもこの時期だったし、会社に入って最初に感じたギャップもこの時期だった。いわゆる五月病というものだ。
 散歩コースは気に入っていた。一番気に入っているのは、川原にある公園を通るところである。小学生時代に遠足で行ってからというもの、そこを通るのが楽しみになっていた。学生時代はバス通学だったこともあってなかなか行くこともなかったが、仕事をし始めて電車通勤を始めると、駅までの道のり、公園を横目に歩いて行く。何度も、
「立ち寄ってみたい」
 と思いながら、朝は喧騒とした雰囲気、帰りは日も暮れていて遠足の時のような雰囲気を味わうことができないことから寄ることはなかった。散歩をするようになって、朝日が昇り始める時間に寄ることが多くなり、何か楽しいことが起こるのではないかと密かに期待している自分に気付いたのだった。
 それが「出会い」であるということに気付くまでに、あまり時間は掛からなかった。もちろん女性との出会いで、ここのベンチに座って話をすることを考えながら、気付いたらベンチに腰掛けている。
 春の時期は桜が綺麗だった。満開の時期は短かったのだが、咲きはじめからずっと見ているので、徐々にピンク色に染まってくる木々を見ながら楽しみに待っていた。ピンク色というのは目に優しく、それほど過激な色ではない気がするが、よく見ると感情が昂ぶってくる。女性をイメージしているからなのかも知れないが、それがそのまま欲情に繋がることはない。桜の木の下にいるといつも包まれているように感じるのは、自分が包まれることを女性に望んでいるからではないだろうか。母親の羊水のように包まれていることを感じさせない包容力、母親に感じていたのを思い出す。
 母親は佐竹にとって、決して優しい人ではなかった。厳格な父親に従いながら、いつも何かに怯えているような雰囲気を持っている。
 そんな父親の厳しさに無意識ながら反抗していた佐竹は、母親の従順さにいつも苛立ちを覚えていた。しかも、それを自分にも押し付けようとする。そんなところが一番目に見えて嫌だった。
――決して優しい人ではない――
 と感じたのもそこからで、ただ従順なだけが、まわりにどれほどの苛立ちを覚えさせるかを教えてやりたいという思いで一杯だった。
 しかし、佐竹は感じている。大人になった自分も結局回りに従順なところがあり、下手をするとまわりに流されやすいところがあるように感じるからだ。
――優しさって何なんだろう――
 いつも考えているが、結論を得られるものではない。究極のテーマとして考え続けることが却って刺激になっていいようにも感じている。
 優しさには自分に対するものと人に対するものがあるが、前者はあまりよい傾向ではなく、後者が本当の優しさだと思っていたが本当なのだろうか?
 だが、自分を大切に思うことがそれほど悪いことなのだろうかと思うことがある。
――自己愛がなくして、人を大切に思うことができるだろうか?
 佐竹はいつもそれを感じている。自分中心の考えが元々強く、気持ちに余裕を持つことで、人に優しくできると思っている。しかし、なかなかそうもいかず、余裕を持っている時でも、人に優しくできなかったり、余裕がなくとも人に優しくなれたりすることがある。実に不思議なものだ。
 もちろん相手にもよるのだろうが、何かを与えてあげたいと思える相手が現われれば、きっと心骨注ぐ方だろう。今までに現われたことがないのがいいのか悪いのか、佐竹にも分からなかったが、その時になってみないと実際には分からない。
 基本的に女性に対して優しくありたいと思っている。知り合うとすれば女性と知り合いたいという気持ちは強く、それは心身ともに欲しているのだろう。
 無性に寂しい時がある。心も身体も欲している。温かな心、そして熱く火照った身体、どちらも同時にほしくなるのだ。そんな時は自分の身体の芯が冷えているような気がするが気のせいだろうか。
 優しさが表に現れてくるのはそんな時だろう。しかし、寂しさのため、表に出ることを許さない。表に出れないジレンマがストレスとして溜まってくる。そんな時、自分が何をやっているか分からなくなるのだった。
 本当の優しさを知らない佐竹だった。自分の中に籠もってしまって表に出てこない優しさが、果たして本当の優しさと言えるのだろうか?
 母親に感じていた優しさへの疑問、それがトラウマとなり、ずっと真の優しさを知ることがない。ひょっとしてこのまま真の優しさを知ることなく過ごしていくような気がして仕方ない佐竹だった。
 少なくとも、毎日の生活に優しさはない。仕事上の会話にしても付き合いにしても、優しさを感じることはない。業務をスムーズに遂行するために必要な会話には、けじめと節度があればいい。形式的なことだけではないだろうか。そんな会社での毎日だけだと、感覚も麻痺してくるというものである。
 早起きするようになったのも、気持ちに余裕を持つことで優しさを忘れないようにできるだろうという思いがあった。優しさがないわけではなく、あくまでも心の中に封印されているという考えの元である。
作品名:短編集76(過去作品) 作家名:森本晃次