短編集76(過去作品)
不思議な感覚が襲ってくるが、目を離すこともできずにジッと見つめている。目の前の目だけになって見つめている自分に気付くこともなく行動して、最後は殺害に至るのだ。だが、違うパターンの時もある。殺害の瞬間になって初めて身体から分離して、目の前に土色の顔をした自分が現われる。
その表情はとてもこの世のものとは思えぬほど凄まじいもので、まるで別人になってしまったかのようだ。
その日どれだけ医者に自分の考えや、夢で見たことを話せるか分からない。待合室で待っている時間の長いこと、だがそれでも構わないと思っている。目の前にいる女性が気になり始めたからだ。彼女がどういう理由でここに訪れているか表から見ているだけでは想像もつかない。いや、かくいう竹田だって、黙って座っていればここに不釣合いに見えるだろう。ここに姿を現す人たちは皆、大なり小なりポーカーフェイスでここで待っているのではないだろうか。そんな気がして仕方がない。
――あまりにも静かすぎる――
耳鳴りを感じる。待合室は完全な密室で、受付の隣にある診察室に続く扉と、擦りガラスになっていて表から覗くことのできない入り口、さらにはトイレの扉があるだけで、音楽すら流れていない。
もし一人でいれば無臭だったのだろうが、女性がいることで、竹田の中でさらに夢を思い出させる匂いが充満しているように感じた。
竹田は目の前にいる女性を見つめた。その顔に懐かしさを感じることと、目に焼き付けておきたい衝動に駆られたからだ。すぐに忘れてしまいたくない顔に思える。自分の好きなタイプだからだろう。
竹田にはもう一つの考えがあった。その考えがあるからこそ、その日勇気を持って神経科の病院を訪れたのだ。その考えがなかったら、きっと神経科の扉を開くことを躊躇したに違いない。
人間というものは、誰でも何か飛び抜けた能力を持っているという考え方である。テレビなどで見る超能力と呼ばれるものがそれであり、ただ、表に出せるか出せないかの違いだけである。
例えば静電気というものがある。髪の毛をラミネートの下敷きなどでこすると吸い付いてくるもので、自然現象と組み合わせれば起こすことができる。しかし、人間はその静電気を溜めておくことができるらしい。自分で意識がないだけで、そのため使い道も分からない。
昔から「天才」と呼ばれる人たちの伝記を読んだりすると、その中に精神異常ではないかと思われるエピソードが登場することがしばしばある。後から面白おかしく書かれた部分もあってどこまでが本当か信憑性を疑うが、火のないところに煙が立つはずもなく、どこかにそれに近い逸話が残っていたからに違いない。それを考えると、逆に何か特殊な能力を感じると、そこに自分の異常な神経を裏付けるものがあると考えるのは、まんざらおかしなことではあるまい。
かくゆう竹田も自分に特殊な能力を感じる時がある。それはいつもというわけではないので、最初は気のせいか偶然だと思っていたくらいだ。
元々竹田はあまり人との交わりを好きな方ではない。仕事においても無難にこなしていて仕事上の信頼は厚いのだが人間的な信頼はどうだろう。彼に相談を持ちかける人もいないし、見れば見るほど孤立している。
しかし、たくさんの人が集まる会社や事務所にはいろいろな人がいるもので、竹田のようなタイプの人間は、案外一つの事務所に一人くらいはいるものではないだろうか。
変わり者というレッテルを貼るにはあまりにもひどいことを自分で悟っている竹田だった。
では果たしてその能力とは何だろう?
学生時代は竹田も友達と一緒にどこかに出かけたり、いろいろ話すのが好きな男であった。社会人になることでお互いが忙しくなり疎遠になったことも理由の一つだが、自分の能力に気付いたことで、まわりに人を寄せ付けないような雰囲気を自らが形成してしまったようだ。
就職活動をしていた頃からだろうか、竹田はどうしてもその孤独感からか、同じ職種を目指す学生とよく話すようになった。それは必然的なことだっただろう。だが、相手の話を真剣に聞いているうちに相手の心の奥に見え隠れするものがあることに気付いてくる。
それまでにも友達と将来のことについて話すことはあったが、余裕を持った話ばかりをしていたので、あまり相手を詮索するようなことはなかった。相手の言葉はすべて信じていたといっても過言ではない。その中で自分の考えを述べて、意見を闘わせていたのである。
だが、就職活動時代ともいえば真剣である。就職するということ自体、未知の世界へのスタートライン、それだけで言い知れぬ不安に襲われる。しかも、その前に入社できるかどうかが先決問題なのだ。まさしくそれまでのぬるま湯生活とは精神的に大きな違いがある。
相手の顔を真剣に見ている。そこには余裕と今まで感じていたものはない。それだけに真剣な表情に真剣な眼差しではないだろうか。
そこに余裕がないわけではない。必死になったから余裕がなくなるという考えが間違いだと感じたのはその時で、状況に慣れてくればそこに生まれるものは今まで自分が余裕と感じていたものとは違う余裕である。
――まわりが見えてくる――
ということが余裕に繋がるとは思ってもみなかった。それだけ大学時代の自分がぬるま湯に浸かっていたのだ。
だがぬるま湯が悪いわけではない。考え方の基礎を作るには一番適した時期で、自分なりにいろいろ動くことができる時期も貴重なのだ。
――怖さを知らない時期――
そんな時期だったのだ。
怖さを知らずに何にでも挑戦してみたくなる時期に身動きが取れるのが思春期なのだろう。自分の性格を形成する上で一番大切な時期、さなぎのように硬い殻に包まれて、じっと表の世界に出るのを待っている大切な時期なのかも知れない。殻の中での行動がきっと表に出てから影響してくるに違いない。
竹田は相手と話をしていると、次第に相手のことを真剣に見るようになっていた。相手がこちらのことを真剣な目で見ていることに気付いたからだろう。相手が真剣な目で見てくれば見てくるほど相手の目の奥が見えてきて過去が見えてくるようになってきた。
それは瞳の奥に見えてくるもので、相手がこちらを見てくれなければ見ることができないものだ。漠然と話しているだけでは成立しない。それだけに信憑性を感じていた。
実際に就職活動中の友達に、
「ちなみに君は子供の頃によく虐められていたのかな?」
失礼なことだとは思ったが、彼が瞳で訴えているような気がして仕方がなかったので、思い切って聞いてみた。
「ああ、そうなんだ。よく分かったな。今は違うんだけどね」
「君を見ていると、分かってきたんだ。今までにそんなことはなかったのに」
「今はそんな素振りはまったくないだろう? だけど心の中にはトラウマとして残っているような気がするんだ。時々、そのことを感じるよ」
やはり何かを訴えようとしたのか。それとも無意識に心の奥に封印していた思いが瞳の奥に見え隠れしていたものが自然と見えてきたのか、どちらにしても相手の心の奥が見えたのは間違いないことだ。
「過去が見えるようになった」
と感じたのはその時からだった。
作品名:短編集76(過去作品) 作家名:森本晃次