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短編集76(過去作品)

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 それでも病院には行かなかった。すぐに治ると何の根拠もなく思っていたのであって、今から思えば信じられない。きっと自分が医者いらずの身体だと思っていたのが大きかったに違いない。
 元々怖がりの竹田は、ミステリーを読むことなどなかった。眠れない逆療法にとでも考えたのだろうか。普通に刺激のない内容よりもミステリーの方が眠くなるに違いないと漠然と思っていた。
 睡眠には読書の効果はテキメンで、読み始めてしばらくすると睡魔に襲われるようになった。少しドロドロしたミステリーを読んでいても、それを夢に見るようなことはない。読みながら寝てしまうからではないかと思ったが、それなら夢を見そうだ。読んでいてすでに夢見心地になってくるので、どこからが夢との境か分からなくなっているのかも知れない。
 その頃によく読んだミステリーの中にはトリックを重んじるもの、ストーリーを重視するもの、主人公としての探偵の活躍をコミカルに描いたシリーズ物といろいろ読んだが、印象に深いのは、トリックを重んじる作品だっただろう。その中に殺害方法に凝る話を主に書いている作家がいて、竹田の一番のお気に入りでもあった。彼の作品一つ一つを今でも思い出すことがあるほどで、たまに本棚の奥から引っ張り出してきて読むこともあるくらいだ。
 学生時代から精神的にも肉体的にもそれほど苦痛はなかった。同じような感覚で読むことができるからで、それだけに情緒不安定になるなど信じられなかった。
 情緒不安定を自覚し始めたのは、匂いを感じるようになってからだ。その匂いも夢の中で人を殺害するというシチュエーションが現実との挟間において匂いを夢の中で感じたかのように思わせるのだ。だからこそ人を殺すという夢を見続けるのではないだろうか。
――匂いがあるから夢を見る。夢を見るから匂いを感じる――
 堂々巡りを繰り返しているようである。
 それにしても人を殺す夢ばかりを見るなど尋常ではない。いつも同じ人であるにもかかわらず殺害方法は多岐に富み、毎回違うのだ。
 それほど殺したいと思っている相手が竹田にいるのだろうか?
 いや、ざっと考えてもゆっくり考えても思い浮かばない。
 夢で竹田が殺している相手は男性で、年齢的には四十代くらいであろうか。竹田にとっては上司のような年齢で、会社でいえば課長クラスではないだろうか。
 会社にいても通勤途中でも、その顔がふいに思い出される時がある。しかしそれは本当に一瞬で、考えがついていかない。
――どんな顔だったんだろう?
 と考えた時にはすでに記憶の奥深く封印されてしまっているようだ。
 顔を思い出す瞬間、鼻につくきつい匂いを感じる。それは夢で感じた匂いであり、会社や通勤途中で感じるなどありえないはずである。
 その匂いはアルコールが混じっているように思われるが病院の匂いではない。何となく甘酸っぱさがあり、酢の匂いを感じるかと思えば、りんごのような香りを感じる瞬間もある。普段ふっと感じる時は、そのどれかなのだが、夢で感じる匂いは、そのすべてが混じりあった匂いを感じているようだ。
 今までに女性というものを知らない竹田にとって、それが女性の香りであるような気がして仕方がない。
――当たらずとも遠からじ――
 少なくともそんな感じがする。満員電車の中などで化粧やファンデーションの濃い女性ばかりを感じていて分からないが、きっと何もつけていない女性の真の香りとは甘酸っぱいものではないかと感じている。
 それは願望に近いかも知れない。
――そうであってほしい――
 という気持ちが男としての竹田の心をくすぐるのだ。
 匂いというものをこれほど強く感じ、忘れられない感覚に陥ったことは今までになかった。セメダインやペンキなどのようなシンナーの匂い、コーヒーのカフェインの香り、さらにはタバコの匂いなど刺激の強いものはいくらでもあるが、この香りは一種独特で、まさに男心をくすぐるものに違いない。
 しかしこの匂いが夢を思い出させ、自分を鬱の世界へと誘うのだから、何と皮肉なことなのだろう。
 嫌いな匂いではない。むしろ好きな匂いの部類に入るはずだ。それが竹田を神経科へと赴かせる一番の原因となったのだ。
――この匂いを普通の精神状態で感じたい――
 という思いから彼は神経科を訪れた。かなり心の中で葛藤があったに違いない。今まで病院などまったく縁がなかった男が、いきなりの神経科である。抵抗ないわけがないではないか。
 そこの待合室にいる女性、彼女は地味だが竹田の好きなタイプのように思える。それは懐かしさから来るものなのか、彼女から匂ってくる香りが、夢で感じる女性の匂いそっくりだからなのか分からない。たぶんどちらもなのだろうが、存在が少し薄く感じるのは気のせいだろうか。
 きっと表を歩いていると影が薄く感じられるのではないだろうか。そんな感じがして仕方がない。もし、ここで匂いを感じなければ、自分にとって好きなタイプの女性であっても、その影の薄さから、次にあっても覚えていないかも知れない。人の顔を覚えるのがどちらかというと苦手な竹田はそう感じるのだ。
 人の顔を覚えるのが苦手だと感じるのは、覚えたいと思った人の顔をどうしても覚えることができないからだ。どんなに特徴のある顔でも、覚えようと意識すればするほど、忘れていってしまう。
「次に会った時に思い出すだろうから、わざわざ意識して覚える必要などないんだ」
 という気持ちになれればいいのだろうが、そこまでの余裕を持つことができない。
 意識してしまうと必要以上に余裕がなくなってしまうのが竹田の悪い癖である。普通にしていれば自分に自信を持つことも容易にできるであろうに、下手に意識してしまうことがあるので、自信喪失してしまう。
 普段はどちらかというと自意識過剰なくらいなのに、何かあるとすぐに萎縮してしまうところが、自分でも嫌な竹田だった。
「だから、精神科になど来るようなことになるんだろうな」
 すべてが余裕をなくしてしまう自らのせいだと思いながら、どうすることもできない竹田、それを冷静に見ているもう一人の自分の存在を感じる時がある。
 それがまるで夢の中の自分のようだ。
 夢を見ている時の自分の目線が、時々入れ替わる時がある。見ているのが夢だと感じるのがそんな時で、そこまで鮮明に覚えている夢は今まではなかったが、人を殺す夢を見始めて感じるようになった。
 あまりにも鮮烈な夢だったりすると、あるいは現実の世界でもそうだが、客観的に状況を見つめている自分に気付くことがある。そんな時は、自分の身体から感情が離れて、目だけになってしまったのではないかと思ってしまう。
 目の前にいる自分をもう一人の自分が見つめている。
 何とも異様な光景ではないだろうか。目の前にいる自分の表情をじっと見つめているが、その顔に表情などない。顔色も何と言っていいのか、影が薄く浮いているような土色のようだ。
――これが本当に自分なのか?
作品名:短編集76(過去作品) 作家名:森本晃次