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短編集76(過去作品)

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 もう一つは人から好かれることである。それは男性でも女性でも同じことなのだが、好かれるにはそれなりに自分の中の魅力を感じるからだ。その魅力を知りたいのである。人と話をしたりするのはギブ・アンド・テイク、つまり求め求められるためだと思っている。だからこそ、相手を知りたいのだし、知ってもらいたい。押し付けのような会話にならないか心配ではあるが、それでも、自分を分かってもらうことで生まれる信頼感は、そのまま自分の自信へと繋がるはずなのだ。
 その時の洋三には、どちらもなかった。その両方を追い求めようとして、結局どちらを得ることもできない。いや、得ようとしていること自体、感覚が麻痺しているので、無気力に見えることだろう。自分でも感じているのだから、見ているまわりには一目瞭然だ。
 普段の洋三は鬱積したイライラが、かなり燻ぶっているようだった。会社で仕事をしている時がむしろ落ち着いているくらいで、もっとも落ち着いて構えていないと仕事にならないのも事実だった。
 それは仕事をしている時の自分に、多少なりとも自信が残っているからなのだろう。
「仕事をしている時の自分が本当の自分?」
 自問自答を繰り返してみるが、なかなかその結論に至ることができない。それこそ自己満足を感じているようで、それが、本当に自分が望む形となって現れないからということに繋がる。
――結局自己満足なんだ――
 数字では現われるが、それによって人の信頼を本当に得られたかどうか疑問である。却って人のやっかみを買いそうで、余計なストレスを感じてしまいそうだ。せっかくうまく行っていてもそれが自分の中でのストレスとなってたまってくれば、それはむしろ鬱状態への引き金になってしまう。
 会社を一歩離れると、そこはまったく違った世界、会社では仕事をいつも模索して思った通りに進んでいくが、会社を離れるとそうも行かない。何をしていいか分からなくなるくらいだ。
 時間にも精神的にも余裕があるはずだ。その証拠に会社での一時間があっという間であるのに対し、仕事が終わってからの時間がなかなか進んでくれない。だが、時間に余裕があっても、したいことが決まっているわけではないので、時間を持て余してしまう。精神的に余裕があるといっても、余計なことを考えてしまえば、結局袋小路に入ったままでぐちを探すことに必死になるだけである。
 袋小路に入っても結局同じところに出てくるのである。疲れだけが残って結果が現われるわけでもなく、それでいて時間があまり経っていない。
「一体何をやっていたのだろう」
 と、誰に問いかけるわけでもなく呟いてみるが、その時にはなぜ自分がそこにいるのか、一体何をどう考え、どんな結果を求めようとしたか、自分でも分からない。まるで瞬間的な記憶喪失にでも掛かったかのように感じるのだ。
 目の前は暗く、瞼の裏に無数のクモの巣が張っているように見えている。この感覚は、貧血や立ちくらみを起こした時に似ている。元々低血圧なので、風呂でのぼせることも多かったので、気がつけば酔ってしまってその場で倒れていたことも何度もあった。そんな時。いつも目の前に無数のクモの巣を感じ、意識が遠のいていく感覚があるのだ。気がついた時には記憶が完全に飛んでいて、きっとどこか違う世界をかなりな時間、彷徨っていたのではないかと感じるが、実際に時計を見ると、一分も経っていないことが多い。
「まるで夢を見ている時のようではないか」
 確かに夢を見ている時は長く感じられる。意識がハッキリしてくる時に、少しずつ薄っぺらいものに感じてくるが。
「夢というのは目が覚める寸前に見るものだ」
 というではないか、まさしくその通りだと思える。
 瑞穂が変なことをいう時がある。
「私、時々頭が変になったんじゃないかと思うことがあるの」
「どういうことだい?」
「ふっと、人の顔が思いつく時があるんだけど、その人は見たこともない顔なのに、何度も会っているような気がしたり、逆に、見覚えのある実に身近な人なのに、初めて見るような気がしたりと、そんなへんてこな感じがあるんです」
「それは夢で?」
「いいえ、起きていて感じるんです。おかしいでしょう?」
「それは確かにそうだね」
 と言ってはみたが、その感覚なら洋三も今までに感じたことがある。その時も自分が変になったのではないかという錯覚を感じたくらいだ。
 あの時は、よく知っている人の顔を思い出して、それが妙な胸騒ぎに繋がったのだ。
 それはまだ中学くらいのことだっただろうか。曜日は土曜日、昼前に授業が終わり、帰って来る途中でのことだった。当時はそれほどまわりが開発されていない通学路だったので、まわりに田んぼや住宅を建てるための敷地が仕切られているところを歩いて帰っていた。今でこそ住宅地になって、その頃のイメージはないが、梅雨の時期などカエルの声や、夏になればセミの声と、季節によってさまざまな虫の声が聞こえたものだ。
 あれは雨が降っている時だった。まだ舗装されたところがところどころにしかなく、道もでこぼこしていた。雨が降れば道に大きな水溜りができていて、車が通ると激しい水しぶきを上げられたりした。
「雨の日はこれだからいやだ」
 水溜りを避けるようにしながら歩いているが、道が狭いせいか、なかなか思うように歩けない。風が吹いてきて、梅雨の時期だというのに、冷たい雨が横殴りに降っていた。しかもあたりが一気に暗くなり、早く家に帰りたくてたまらなかった。
 そんな時に限って、なかなか前に進んでくれない。冷たい雨でズボンはすっかり濡れてしまって、気持ち悪い。
 遠くの方で雷がなるのを感じた。傘にはこれでもかと打ち付ける雨の重たい音が響いていたが、雷が鳴ると今度はそちらの音が気になり始めた。まるで耳鳴りのようになってきた耳にキーンという音が響いている。
 すると最初は音だけだったが、はっきりと白い閃光を感じた。まわりが暗いだけに余計に白く感じ、目に焼きついている。思わず目を逸らしてみたが、すでに遅かった。目を瞑った瞬間に、轟音が聞こえ、糸を引くように静まり返る。いかにも余韻を残し空気を引き裂くような音である。
 目の前に人影が写ったように感じた。目が慣れてくると、真っ暗な前が少しずつハッキリとしてきて、その人影を感じたような人がまわりに誰もいないのを感じた。
「あれ? 確かに目を瞑ると人影を感じるだがな」
 もう一度目を瞑ると、また人影を感じた。
 人影は男性である。細身で背が高い、何となく見覚えのあるその影は、いつも見るシルエットだ。
「そうだ、お父さんだ」
 何となく背筋が曲がって、猫背っぽい雰囲気は父親に他ならない。シルエットを見ながら父親の顔を思い浮かべようとした。
「あれ?」
 だがどうしたことだろう。父親の顔を思い浮かべることができない。これほどハッキリとシルエットに浮かび上がっていてすぐにでも思い浮かびそうなのに、どうしたことなのだろう。
作品名:短編集76(過去作品) 作家名:森本晃次