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作家の堂々巡り

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 しかし、不思議なことに老人は死後数日経っているようで、昨日の宵の口くらいまでは、その場所に誰もいなかったことは証明されていた。
「じゃあ、この老人はどこで死んだんだ?」
 ということになり、死体遺棄が疑われて捜索されることになったのだが、例の店に彼が死体発見の数時間前にいたということが証言されたことから、事件は混とんとしてくる。
 あくまでもこお話はミステリーではない。ホラーを十分に含んだ作品なので、人が推理する謎解きはこの際問題ではないのだ。
 時間の矛盾を謎解きのキーとして、作者は読者に最後問題提起している。
 その時に、タイトルの違和感がこの問題提起の回答に繋がるということを誰が予想できるだろう。この小説はインパクトや受ける衝撃に比べて、さほど売れないのは、ラストの問題提起が読者に受け入れられないからだろう。
「こんな小説は、ルール違反だ」
 と書いている文芸雑誌もあった。
 ミステリーやホラーの純粋なファンであれば、そう思うだろう。もし、それ以外の小説ファンであっても、どこか小説作法としてルール違反だという暗黙の了解を感じているかも知れない。

               消えていく時間

 敦子は、山田大輔の小説を何度も読み直している。特にこの「消えていく時間」も何度読んだことだろう。
 そのうちに一つの疑問に辿り着いた。
「彼の小説は、どこかで他の人の手が入っているような気がする」
 というものである。
 そういう意味で、
「他人との共作」
 というイメージの小説も少なくないと感じていた。
 しかし、この「消えていく時間に関しては、確かに他の人の力が加わっているとは思うが、それは、
「途中から作風が変わってきている」
 という意識であって、共作というのとは少し違っている。
 敦子が思う共作というのは、アイデアをそれぞれで持ち込んで、ああでもないこうでもないという意見をぶつけ合って作り上げるものだという発想である。それぞれのパーツを別々の人が作って、それを繋ぎ合わせて一つの作品を作り上げるということは、小説の世界でもありではないかと思っている。しかし、山田大輔の作品に関しては、それはできないと思う。なぜなら曖昧な部分が多すぎて、ミステリーなのか、ホラーなのか、SFなのか分からないというジャンルすら曖昧な小説を繋ぎ合わせることを不可能だと考えるからだ。
 敦子が山田大輔の小説に興味を持ち、何度も彼の作品を読み返すのは、確かに、
「一度読んだだけではよく分からない」
 という思いに駆られるというのが一番の理由であるが、それとは別に、
「彼の作品には、他人の力が働いている」
 という思いがあったからだ。
「小説家というのは、ある意味二重人格ではないだろうか?」
 という話をどこかの雑誌で読んだことがあった。
 敦子もその話にはなるほどと思う節もあるが、他の人の作品の中に、もう一つに人格が存在することはない。小説家としての性格的なものは二重人格なのかも知れないが、実際に作品に向かうと、これ以上ないというくらいに自分の作品に一直線に素直になれるものだと思うのだった。
 敦子はそんなことを考えながら喫茶店からアーケードをせわしなく歩いている人々を見ながら、自分が漠然とした朝を過ごしていることに気付いた。さっきまではまばらだった人が少しずつ増えてきて、サラリーマンだけではなく、学生の姿も増えてきたのを見て、思ったよりも時間が経ってしまったのではないかと感じた。
 しかし時計を見ると、店に入ってからまだ五分ほどしか経っていない。考え事をしていると時間が経つのが想像以上に早いということを分かっていたので、余計にサバを読んで頭の中で時間を進めすぎたのではないだろうか。そう思うと思ったよりも時間が過ぎていないことも理屈で説明できる気がして、何とも言えない気分になっていた。
 もちろん、まだ注文したメニューが運ばれてくるわけもなく、また表を見ていると、
「お待たせしました」
 と、さっきの女の子が注文のモーニングを持ってきた。
 まるでこちらの気持ちが分かっているかのように敦子の顔を覗き込む彼女の表情は謎めいていたが、笑顔には屈託がなかった。どこか矛盾した感覚だったが、どちらもウソには思えなかった自分が不思議に感じられた。
 店内を見渡すと、ほとんどの客が単独で、しかも常連だということがよく分かった。
「消えていく時間」
 に出てきたお店のように、皆常連でそれぞれの時間を過ごしている。
 しかし、一番の違いは、老人が感じたような凍り付いた時間が、この世界には存在しないということだ。あくまでも凍り付いた時間は、作家である山田大輔が創造した世界観であり、実際の世界とは違っている。
――もし、私があの小説を読んでいなくて、今この光景を見て、何か小説を考えようとすると、彼のような凍り付いた世界を創造することができるかしら?
 と考えてみた。
 小説家の発想に自分が近づけるわけはないという思いを抱いている敦子なので、当然不可能だろうと思っていたが、時間が経つうちに、
――そんなことはない。私にだって創造できないことではないような気がするわ――
 と感じた
 小説を書くということには、普通の人間は自分の中で余計な結界を作ってしまって、それ以上先に進めないという壁が見えてしまうと思っていた。小説家を目指す人にはそれ以上の結界を感じるようで、目の前にまるでドミノ倒しを思わせる連立した壁が創造されるのではないだろうか。
 小説を書こうという甘い考えのまま、最初の壁で諦めてしまう人はそれはそれで一番正解の選択なのかも知れない。少しでも嵌りこんでしまうと、そこから先は少なからず小説家を諦めなければいけないという壁を自分で作り上げて、自分を納得させなければいけないという労力が必要になるだろう。
「先に進むにも後ろに戻るにも、それぞれに体力がいる」
 という意味で、断崖絶壁の谷間に掛かった木の吊り橋を、突風に揺れながら渡ろうとしている光景を思い出してしまう。
 思い出すというのは、自分がそんなところに行ったことはないという意識はあるのだが、記憶のどこかに格納されているようで、目を瞑ると光景がまるで見てきたことでもあるかのようにある程度鮮明に思い出されるのだ。
 確かにテレビドラマのサスペンスなどではよくある光景なのだろうが、その光景を敦子は鮮明に思い出せるほどではないと思っていた
 やはり、潜在意識の中で前に進むことと後ろに戻ることのどちらにも労力を必要とする場面を思い出すことがいずれはあるということを感じていたからなのかも知れないと思うのだった。
 山田大輔の小説を愛読するようになる前からその思いはあったような気がする。
――いや、ひょっとして、小説というものを読み始める前から、この光景は意識の中にあったような気がする――
 子供の頃には思い出せそうな意識の中で、
「子供だから」
 という意識が邪魔をして、思い出すという機能に埋もらせていたかのようにも思えた。
 断崖絶壁というと、サスペンスもののテレビドラマでは「お約束」と言ってもいい場面であろう。
作品名:作家の堂々巡り 作家名:森本晃次