作家の堂々巡り
商店街の出口は少し歩けば見えてくるほど、それほど長い商店街ではないのに、結構歩いてきたつもりでいるのに、出口を見ることができないのは不思議だった。
そう思って後ろを振り向いてみた。
商店街のアーケードの切れ目は思っていたのとほぼ変わりがない。ただ、いつもは入ってすぐだと思っていたこの場所が、振り向いてもすぐにアーケードの切れ目が見えると思っていただけにおかしな感覚だった。
だが、この感覚は無理もないことだった。
今まで振り返ったことが一度もなかったというのもその一つではあるが、通ってきたところというのは、自分で思っているよりも実際には結構来ているものであったりするので、後ろを振り返った時、少し遠くに感じるのも当たり前だということを、学生時代に感じたのを思い出した。
その時は、
――新鮮な発見だわ――
と感じたはずなのに、今感じても、それを新鮮だとは思わないのはなぜだろう。
その日は通行人もほとんどおらず、自転車もたまに通るくらいだった。風もなく、まるで真空の穴の中を通っているような錯覚を覚えていたが、なぜか耳鳴りがしていた。
それは、キーンという音ではなく、普段の喧騒とした雰囲気だった。耳鳴りだと感じたのは、普段と違う環境で、風もないのに耳に入ってきて鼓膜を揺さぶる喧騒とした雰囲気が錯覚のように思えたからだ。
「耳で感じる錯覚というのは、耳鳴りのことんだろうな」
と敦子は以前から思っていた。
それがこの日、証明された結果になったのだが、なぜか釈然としない感覚に陥ったのは、誰もいない中で聞こえるからだろう。
そんな感覚をかつて感じたのを思い出した。
――そうだ、あれは海に行った時に、巻貝に耳を当てて聞いた時の感覚だわ――
というものだった。
巻貝に耳を当てて聞いてみると、そこには喧騒とした雰囲気の音が聞こえてくる。
海に一緒に行った人に、
「これを耳に当ててみてごらん」
と言われて当ててみると、不思議な音が聞こえたことで、
「これは一体?」
と訊ねると、
「これは潮騒というものだよ」
と教えてくれた。
この時に教えてくれた人が誰だったのか、敦子は思い出せない。それこそ、のっぺらぼうか、モノクロに見える無表情の男性しか思い浮かばないのだ。
――そんなものしか思い出せないのであれば、思い出さないに越したことはない――
と、敦子は感じていた。
敦子は商店街の中で、アーケードをまるで、
「大きな巻貝のようだ」
と感じていたようだ。
もっとも、巻貝から潮騒の音が聞こえてくるのは、耳を押し当てたからで、自分が中にいるからではない。だが、中に入ったとすれば、同じ音を感じることができるかも知れないと思うと、やはりアーケードを大きな巻貝だという認識でいることは間違いではないように思えてきた。
アーケードがこれほど長いと思ったこともないのも事実で、人がいてもいなくても、実際には長いアーケードなのではないかと思うようになっていた。
歩いていると、香ばしい香りが漂っていた。
――この香りはトーストの香ばしさだわ――
と感じた。
コーヒーの香りよりもトーストの香りをより強く感じたのは、それだけお腹が空いていたからではないだろうか。敦子は目が覚めてすぐにお腹が減るわけではない。ある程度まで目が覚めないと食欲がわいてこないのだ。おれは敦子に限ったことではないと思うのだが、人に聞きにくいことの一つとして意識することで、余計に自分だけの考えのように思ってしまうのだった。
朝の時間をそれほど有意義に使っているつもりはない敦子だったが、短い朝の時間で、よく自分の家で朝食が摂れるものだと思うのだが、それが毎日の習慣というものなのかと思うと、納得できてしまう敦子だった。
目の前には喫茶店の看板が見えた。普段はもっと大きなものに思えたのだが、今日は普段よりも小さく感じた。それは距離的なものも関係しているのかも知れない。思ったよりも近づいてくる気がしなかったからだ。
いつもよりも少し歩いた気がする。店の扉を開けると、中には常連と思しき人たちが数人いた。
「いらっしゃいませ」
少し暗めのシックな雰囲気に、話し声一つしない陰気とも思える店内に、乾いた空気を思わせる声が聞こえてきた。
明らかに場違いに思えるその声に敦子は救われた気がした。もしその声がなかったら、店に入ったことを後悔するに違いないと思ったからだ。
店内は彼女の乾いた声とは対照的に湿気を帯びた空気が充満しているようだった。その空気はコーヒーやトーストの香ばしい香りを運んでくるのだから、一概に嫌な空気だというわけではない。表の寒さを補って余りあるほどの暖かさの中では、湿気を帯びた空気も致し方のないことであり、敦子にもそれは十分に分かっていることだった。
だが、それを差し引いても初めての客には少しハードルの高さが満ち溢れていた。カフェというよりも昭和の香りを感じさせる昔ながらの喫茶店。早朝から開いているのだから、常連で持っている店であることは一目瞭然だったはずだ。
もちろん、敦子にも分かっていたことだった。だが、今まで気になっていて一度も立ち寄っていなかったのは、そんな思いが影響していたことも分かっている。しかし、一度も入らないというのもせっかく気になっているのにおかしなことだ。気になっているのであれば入ればいい。気に入らなければ、二度とこなければいいだけのことだ。
テーブル席は十ほどだっただろうか。個人でやっている喫茶店としては広い方ではないだろうか。カウンター席は半分ほど埋まっているが、テーブル席にはそれほど人は座っていない。
敦子は窓際の席に腰かけて、店内を一瞥したが、皆それぞれ好きなことをしていて、会話になる雰囲気は皆無だった。
新聞を読んでいる人、本を読んでいる人、スマホをいじっている人。本当にそれぞれだ。カウンター奥で先ほど声を掛けてくれた女の子であろうか。まだ女子大生と言ってもいいくらいの無垢に見える女の子が慌ただしく手を動かしていた。
敦子が席を決めたのを見て、彼女は水をトレーに乗せ、持ってきてくれた。
「何になさいますか?」
と、先ほどよりもトーンを下げた声で聞いてきた。
声の大きさが下がった分よりもさらにトーンが下がったような気がした。その声を聞くと、
――元々声のトーンは低いんじゃないだろうか?
と感じた。
敦子の友達にも似たような女の子がいた。普段は声が大きいのに、声を少しでも低めにすると、明らかにトーンが下がっているのが分かる。自分で自分を抑えているという雰囲気が分かる気がするのだ。