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作家の堂々巡り

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 普段の決まった朝の生活を営んでいたことで、その日一日が決まるということで、冒険は決してすることはなかったが、実際には駅前の喫茶店が気になっていた。前に何度か寄ったことがあったが、それは大学生の時と就職してからの仕事の帰りという、夕方の時間がほとんどだったのだ。夕飯をその店で食べたことがあり、味がよかったので、モーニングが気になったというのも自分で納得できた。
 その店は七時から開いている。通勤時間は人の波に呑まれるように歩いているので、店を意識しない日もあるにはあったが、時々店から香ってくるコーヒーやトーストの焼ける匂いに引き寄せられる気分になることもあったが、基本的には朝食は家で摂っているので食欲があったわけではない。食欲をそそられることはあっても、食べたいという気分にまではなっていない。その気分が却って店を意識させるものとなっているのも事実のようで、いつかは入ってみたいという衝動のようなものに駆られていたのだった。
 家を出てから駅までは二十分くらい歩くので、歩く距離としては、少しボリュームを感じさせる。それでも途中からは駅に向かう人の流れに沿わなければ置いて行かれてしまうような錯覚に陥るほどであり、波に呑まれてしまうと、距離や時間の感覚が若干マヒしてしまうのであった。
 途中には国道を横断したりするため、余計に時間が掛かる気がしていた。国道は片側三車線の道路で、交通量も半端ではなかった。
 朝の通勤時間で一番最初に人の多さを感じるのは、この時赤信号で待たされた時、集まってくる他の人の多さを見た時だ。老若男女それぞれで、いかにも通勤にいそしんでいると思わせる単独の人、友達と和気あいあいと話をしている女子高生など、本当に様々だった。
 そんな中で、
――自分はどちらに近いのだろう?
 などと考えながら信号が変わるのを待っていると、吹いてきた横風の寒さを痛感することで、あらためて朝の光景であることを思い知らされた気がした。
 国道を渡ってしまうと、その先には商店街のアーケードがあった。郊外型のショッピングセンターができてしまってからというもの、かつての賑わいはすっかりと鳴りを潜めていた。敦子がまだ中学生の頃にはすでに商店街の活気はなくなっていて、昼間といえど、半分近くの店がシャッターを閉めている状態だった。
 もっともかつての賑わいを遠い記憶としてしかなくなってしまっていた敦子には、寂しさというほどのものはなかった。だが、ふとした時に商店街を歩いていると、急に忘れてしまったと思っていた商店街の賑わいを思い出してしまい、寂しさに近い感覚を覚えるようなことがあった。
――忘れているつもりでいたけど、心の奥に封印されていただけなのね――
 ということを思い知らされた。
 ただその思いを朝に感じることはなく、仕事が終わっての帰り道に感じることだった。仕事で疲れた時や、疲れてはいないが、何か心の中にポッカリと穴が開いたような気分になった時、それまで感じることのなかった寂しさが一気に噴き出すような感覚だと言ってもいいだろう。
 その日は、商店街に差し掛かった時、寂しさを感じることはなかったが、普段とは違った光景を見ているような感覚だった。毎日同じ光景を見ていると、見えているはずのものが見えているにも関わらず、意識の中で消えてしまっているということは往々にしてあるというものだ。
 例えば何か事件でもあってその目撃者探しに警察から聞き込みをされた時、見た見ていないにも関わらず、自分の中の正直な気持ちとして、
「誰も見ていません」
 と答えるような気がしている。
 それは半分、
――自分が何かの事件の目撃者になるなどないだろうな――
 という意識があるからではないだろうか。
 確実ということはないのだから、目撃者になることもあるだろうが、そんな意識を持っているわけではないので、
「ボーっとしている時は見えているはずのものも記憶に残っていない」
 という意識が最優先するので、考えていないつもりのことが、無意識に意識させるという矛盾した状況を作り出すのではないだろうか。
 朝の商店街は、店舗も開いていない。そして通勤通学のラッシュの時間でもあるということで、車が入り込むことはないが、その分、自転車が我が物顔で走り抜ける。
 本当は通行してはいけないはずだった。実際に商店街の入り口には、
「自転車通行不可」
 という立札が立っているが、それを守る人などいないのが事実だ。
 一人でも乗っている人がいれば、それは守られていない証拠であり、一人がいれば、必ず数人はいる。それが集団意識というものだろう。
 最初は自転車を意識しながら歩かないと危ないということもあって、商店街を歩く時はそれなりに注意しながら歩いていた。つまりは人や自転車の動きに意識を集中させていたのだ。
 それがいつ頃のことだろうか。人の動きにも自転車にも意識がなくなっていった。無意識のうちに動きのパターンが見えているからであろう。
 歩いていると、人の顔も意識しなくなった。人や自転車の動きを見るためには、相手の表情を意識することで次の行動を予見していたからだ。それこそ人間の無意識の本能であり、意識することが無意識に繋がるということでもあった。
 まわりを意識しなくなってから、敦子は急に気持ち悪くなった。
――もし、今人の顔を確認しようとすると、相手はどんなことを考えているか、分かるだろうか?
 という思いだった。
 敦子は想像してみた。
――まったくの無表情なんじゃないだろうか?
 顔色も完全に土色になっていて、まるでモノクロテレビを見ているかのような錯覚に陥っていた。
 さらに、それ以上に怖いことを想像していた。
――のっぺらぼうだったらどうしよう?
 という思いだ。
 完全に逆光になっている。朝日を背に歩いている人であればそれも分からなくもないが、朝日に向かって歩いている人であっても、同じように顔だけが影になっていて、その表情はおろか、まったく何も見えないという恐ろしさを感じさせられる。
――これって夢なのでは?
 と思うと、次の瞬間に、今までのっぺらぼうだったりモノクロに見えていた人の表情が分かるようになるのだった。
 それを錯覚というのであれば、錯覚を招いたのは、毎日同じパターンの行動であるということになる。
 敦子は毎日同じ行動をすることが無難な毎日を過ごすことだと思っていたが、朝の商店街を通りかかる時だけ、一日のうちで一番不思議な気分に陥る瞬間であることを理解していた。
 しかも、それは毎日のように感じるようになった。最初は感じなかったはずなのに、いつの頃からそんな気分になったのか、自分でもハッキリとは分からなかった。
 敦子にとって商店街を通り抜けることは、通勤という行動の一つのプロセスにしか過ぎないとずっと思ってきたが、この日、今までに見たことがないほどの朝の時間でほとんど誰も歩いていないと思えるほどの少なさに敦子は正直戸惑っていた。
――商店街に入ってからかなり経っているにも関わらず、まだ少ししか歩いていない――
作品名:作家の堂々巡り 作家名:森本晃次