作家の堂々巡り
小説でなくとも何かを書くということが好きだったのだから、文学部への入学は決して悪い方に転ぶことはないと思っていた。上手な文章を書けるに越したことはないと思ったからだ。
中学時代から読んでいたミステリー小説で文章に触れることを覚え、そのうちに、
――自分でも書いてみたい――
と思うようになると、高校時代は小説を書くのも結構楽しかったように思う。
今から思えば、中学時代に本をよく読んで、高校時代になって書くようになったあの頃が、
――今までの中で一番楽しかった時期だったのではないか――
と感じていた。
敦子は、二十五歳になった今では、大学時代に作家になりたかったという意識があったということもほとんど忘れかけていた。
「なりたかった」
という意識は残っているのだが、それが頭で感じている意識なのかが自分でも分からなくなっている。
もうすぐこの感覚もなくなってしまうという思いを抱いていたが、今は何も目標のない自分を寂しく感じることもあり、たまに何を考えているのか自分でも分からなくなっていることが結構あった。
「何、ボーっとしているのよ」
と、同僚の女子社員に言われることもあり、我に返ったその時にも、
――私はその時、無意識だったんだ――
と、無意識だったということがまるでウソのように思えてくるから不思議だった。
いきなり何かが起こる時というのは、その時には分からないものではあるが、実際に起こってからその事実をまわりから聞かされた時、
――何か予感めいたことがあったような気がする――
という思いに駆られることが往々にしてあるようだ。
最近、自分が作家になりたかったことを久しく思い出すこともなかったのに、何がきっかけになるか分からない。そのきっかけのおかげで忘れていた何かを思い出すということもあるようで、敦子はそれが実際に自分に起こったことのように考えていたが、そのせいでしばらくの間、それが何を指していたのか分からなかった。
――人の意識っておかしなものだわ――
と思わせたが、敦子にはその時まだ何も分かっていなかったのだ。
敦子は、あまりいろいろなことを普段から考えることのなかったタイプで、ある意味、いつも何を考えているのか分からないとまわりから見られていた。それは何かを考えてボーっとしている人とよく似ていて、それを見分けるのはきっと難しかったことだろう。
敦子のことを、
「いつも何かを考えているように見える」
という人もいれば、
「いつもボーっとしている」
という人もいる。
仲がいい人は、一律に後者の方をいい、あまり知らない人には前者のように思っている人が多いようだった。
「相手が、何を考えているか分からない」
と言っている人のほとんどは、
「この人は絶えず何かを考えている」
と思っているのではないかと敦子は考えていた。
だが、その思いは本当であろうか?
敦子は今まで、自分が人よりも劣っていると考えることが多かった。だからいつも人を見上げるようにしていたが、そのせいか、まわりもいつも自分を見下しているかのように思っていた。自虐的とまではいかないが、高校生の頃までは少なくともいつも何かを考えていた。
そして他の人から影で、
「あの子は何を考えているか分からない」
と言われていたことも分かっている。
しかし、それはそれでいいと思っている。何を考えているのか分からないと思わせている方が、人に不気味な印象を与え、余計なちょっかいを掛けてこないと思ったからだ。
小学生の頃、謂われなく苛めに遭っていたのだが、その時いつも、
――放っておいてほしい――
と思っているのに、どうして皆がちょっかいを出してくるのか分からなかった。
だが、いつも何かを考えていないと怖いという思いがあった。その考えることというのも、まわりに対して考えるということではなく、自分に対して考えるだけで、しかも、自分を客観的に見るわけではなかった。自分の殻に閉じこもっているだけだったのだ。
それでも実際には客観的に見ていたのであって、それを自覚することなく殻に閉じこもっているだけだと思っていた。それが違うと感じたのは高校生になってからで、逆に自分が客観的にしか見ることができない人間だというそれまでと極端に違う考えを持つようになった。その頃から「客観的」という言葉が、敦子の中で一種のトラウマのようになったのである。
山田大輔の小説を読んで衝撃を受けるきっかけになったのが、敦子は交通事故に遭った時のことだった。それまで車が飛び出してくるなど想像もしていなかったので、あっと思った瞬間があったのかどうかすら、しばらくは思い出せないでいた。
あれは久しぶりに早めに目が覚めた時のことだった。いつもよりも一時間ほど早く目が覚めたため、もう一度練るにも中途半端な時間だった。こんな時間に目覚めたことのない敦子だったが、目覚めはそれほど悪かったわけではない。むしろ普段の時間にアラームで目を覚ますよりも快適だったと言ってもいいくらいだ。
それでもすぐに布団から出る気はしなかった。その日は少し寒さも感じたし、布団の中の居心地がこれほどいいものだと思ったことも久しぶりだったからだ。徐々に目が覚めていく感覚と違って一気に目が覚める日というのは夢を見たわけではないと思っていたはずなのに、なぜかその日は夢から覚めてすぐのような気がしていた。
――いや、まだ夢の中なのかも知れないわ――
と思うほど心地よかった。
気分的にはスッキリしているのに気分のよさのせいで、まだ夢見心地だというのも微妙な感覚だった。
いつも決まった時間に目を覚まし、決まった時間に出ていくので、朝の時間というのは、いつも行動は決まっていた。朝の時間を家で過ごしている間には重要な役割があった。それは完全に目を覚ますということである。いや、言い方を変えれば、
「安全に目を覚ます」
と言ってもいいだろう。
決まった行動で目を覚まさなければ、目覚めが中途半端になってしまい、その日一日がすべて中途半端に終わってしまう気がするからだ。
敦子はまだ二十五歳なので、一日一日をそこまで重要だと思っているわけではない。その日一日が無事に済みさえすれば、何も新たな出来事がなくても、
「明日に期待しよう」
と思えるからだった。
しかし、その日一日が中途半端に終わってしまったと感じた時は、何かムズムズとした気持ち悪い感覚が残ってしまい、一日を無為に過ごしてしまったことへの後悔が襲ってくるのを感じるのだった。
その日の目覚めはいつもと違っていたが、それだけに中途半端では終わらない気がしていた。根拠があるわけではないが、漠然とそう感じただけだった。
そんな日は、いつもとパターンを変えてみるのも一つの考えだった。
――今朝は駅の喫茶店で朝食を食べようかしら――
ということを思い立った。